金田んち

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理想の死に方について考えた

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理想の死に方 - phaの日記

これを読んだ。ちなみにタイトルは完全パクリじゃまずいと思ったのでちょっと変えてますです。それと別に自殺とかそいうことを考えているわけではないです。あ、久々に真面目に書いてみようと思います。出来るかな....

 

もし俺が死に直面するような状況に出くわしたらどうなんだろうなぁと思う。たとえば急に腹が痛くなって病院に担ぎ込まれたとして、医者から言われたのが「あなたは明日死にますよ」だとしたら。たぶんその言い放たれた絶望的な理不尽さを素直に受け入れることや直面する死への覚悟は出来ないと思う。死を告げた医者を目の前にして、さいきん息子がよくやる「いやだぁ」を連呼するかもしれない。もしその死の宣告が50歳になったときだったとしたら..60歳になったときだったとしたら.....歳を重ねることによって、徐々に、あるいはとつぜんに死への覚悟というものが出来るとは到底思えない。

 

人は死というものを恐れる。だから不老不死や不死鳥という死のない理想を描く。死への恐怖を疑う人もいるだろうが、少なくとも俺は死というものが恐い。しかし人は生を受けたと同時に誰しもが死ぬ。これまでも、そしてこれからも人が生まれ続ける限り死んでいく。俺も妻も息子も、今この文章を読んでくれているあなたでさえも例外なく死ぬ。他人と同じ経験をすることは限られているけれど、死というものは誰しもが必ず経験するものであるにも関わらず、人はそれを恐れる。誰しもが経験するという点においては、一般的で当たり前のことなのに。当たり前のことを恐れる、こんなアホらしいことはない。

 

もちろん死というのは往々にして苦痛をともなう。けれど、なにもその苦痛が死への恐怖へと直接結びつくわけではない。今夜寝て、明日起きることはない。苦痛をともなわないこのような死に方でさえ人は恐れる。なぜ万人にとってごく当たり前の事である死が恐いのだろう。死はその事象を境にそこから先自分が存在しなくなるということである。それはなにも悪いことばかりではない。死を境として生きるための努力をしなくて済む。苦労をしなくていい、考えることもしなくていい、イヤなことを言われることもなければ痛みも感じずに済む。死とはある意味では救いともなるはずである。でもやっぱり死を恐れる。それを想像してみると、真っ暗な闇の中をただ1人彷徨っている気分になる。そこには自分以外だれひとり存在しない。どこに壁があるのか、どこに行けば何があるのか見当も付かず、ただただ彷徨い続けるだけである。

 

俺もいつかは死ぬことになる。それが明日なのか、1年後なのか、10年後なのか、100年後なのか。そんなことは分からない。しかし俺がこうしてこの世に生まれておよそ27年の期間が経ってしまった以上、その存在の消滅によってどこかに何かしらの穴があく。それは人との思い出としてだったり、職場での俺のポストであったり。しかしそんな穴は代替物ですぐに埋めることが出来る。俺の消滅によって出来た穴による損失なんてものは、世の中全体からすればそもそも損失とも呼べないくらいの小さなものだ。それは世の中にとっては重大な出来事でも、素晴らしくも悲しくもなんともないことである。

 

しかしそれでもやっぱり俺は死が恐い。明日死ぬと宣告されれば耳をふさぎたくなるだろうし震えるだろう。人は、少なくとも俺はそう感じるように出来ているらしい。しかしそう出来ているのなら、頭の中だけであればそういうものを覆すことが可能なのではないだろうか。

 

本当に可能なのかは分からない。しかし仮に可能だとしたら、俺は自らに降りかかる明日の死というやつを心の底からバカにしてやりたい。意識によって感情をコントロール出来るのならそれくらいやりたい。そして実際に死ぬ日にはしこたまハンバーグを作りたい。息子も妻も大好物なんでね。それを3人で食ったらひたすら息子と追いかけっこして遊ぶ。抱っこは急に死んだとき怪我させるかもしれないから我慢だ。あとはホントに最後の瞬間には息子にアンパンチされて「ばいばき~ん」って言いながら福笑いみたいな顔でぶっ倒れて笑われて死にたいな。やっぱ笑っておいてもらいたいからな。

どうしたって避けられない運命みたいなもんだとしたら、それくらいの抵抗はしてみたいと思う。