金田んち

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成長するのは書き手と記事だと思う

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前回の記事に対して「長いから分からん」というブックマークコメントをいただきましたので、今回は文章量を削ります。これで何書いてるか分かってもらえないなら仕方ありません。

ということで、最近疲れが取れないので、久々にトーハトーのフルーツ入りハーベストという甘いお菓子を食べながら書き始めました。洒落かぶった女子が朝食に食べてそうな感じのもので、洒落かぶった女子の悶々とした気分を1分くらい味わうことができました。
かなりのものでした。

自分のブログを成長させたいなら好きなブログを徹底的に読むのが早道 - 凡夫じゆうちょう

ところでこれを読みました。

ブックマークコメントにも書いたけど、この記事を読んでも俺には良くわからなかった。

筆者である凡夫さんから「それはこの記事の文章が悪い」みたいな自虐コメントをもらいましたが、記事そのものは躓くことなく最後まで読めたので良い文章だと思いますし、少なくとも俺の書く文章よりも断然分かりやすいです。
敢えて言うなら「ぼんお」が発音し辛いので「暮夫」に改名してくれると有難いです。

話をもどす。

他の方はこの記事を読んで参考になったとか書かれてたし、俺も最後まで読めたので、分からない原因は俺の中の何かが欠落してるんだろうと思って何度か読み返してみました。
そして気づいたことですけど、たぶん俺にはこの記事の主題である「ブログの成長」という概念を持ち合わせていないんだと思う。

どういうことか。

俺にとってブログは、自分の考えたことや自分の経験した出来事を書き、公開することによって不特定多数の人に読んでもらうための媒介物として捉えてる。
媒介物とは、ラブレターを書く為の便箋であったり、肉声をより拡く届けるための拡声器であったり。
便箋が普通紙から上質紙に変わったところで成長とは言わないし、拡声器に俺の声を福山雅治に変声する機能が付いたとしても拡声器の成長とは言わない。そもそも成長という尺度で解釈するものではない。
だから、そんな媒介物が成長するという概念が俺の中では成り立たなかったんだと思う。

さらに、文章を書くテクニックみたいなものを身につけて文章が上手くなったにしても、そこで成長したのは俺の文章を書く技術であってブログが成長したわけではない。
ブログのデザインなんかを弄っていかにもなデザインが作れるようになったとしても、そこで成長したのは俺のデザインセンスや技術であってブログではない。
要するに成長するとすれば、それはブログそのものではなく俺自身である。

ところで、恐らく俺自身としては、今のまま書き続けたって成長はしないと思う。
人によっては記事を書くためにハウツー本を読んだり、書く度に結構な下調べをしたりするらしく、そんな人たちならどんどん新たな知識や技術が身について成長出来ると思う。

対する俺は、読むものといえばめっきり個人ブログばかりになったし(テクニック論も個人の書いたブログばかり)、書く作業はほとんどの場合、今自分の持ってる知識や経験からくる考えや、出来事を書くことしかやってない。
デザインについては学ぶ気もなく、だからこそこのブログも飾りっ気もない素朴な柴犬のようだ。(アイコンは可愛いネコ)
技術の習得に努めるでもなく、自分の中にある既存の何かを基に記事を書いて公開する作業を繰り返してたって、成長すると言えばせいぜいキーボードを打つスピードが上がるとか、書く事への抵抗力やハードルが下がるくらいだ。
そんなもん全然成長じゃない。

しかし、ライティング技術やデザイン技術の成長は置いといて、多くの人に読まれる記事が書ければ、記事単体としては成長という概念が通用すると思う。
例えばこの記事が誰かに読まれてコメントが書かれたとき、この記事は俺一人の視点で書かれたものから多方面の視点で書かれたものへと変容する。

これを記事の成長と捉えれば、より多くの視点が介入可能である多くの人に読まれる記事を擁するブログってのがブログの成長形として捉えられる。
だとすると、俺は記事に書かれたコメント(ブックマークコメントではなく)を自分で読むだけで公開してないんですけど、コメント主の視点を記事に加えるためには公開した方が良いんと思う。

しかしまぁコメント公開ボタンをクリックしようとすると持病の発作で手が震えすぎてどうすることも出来なくなる。
だから成長のために俺の発作を誰か膝枕で治癒してくれないだろうか。
偽善の精神で全然構わないです。