金田んち

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「家事全般が出来る」男性は結婚出来ないのか

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りょう on Twitter: "30歳過ぎの家事全般なんでもこなせる独身男性に「だからお前は結婚できないんだよ」って言ってる既婚男性がよくいるんだけど、すごくモニョる。"
昨日りょうさんのこの呟きに思いがけずイラッとしてしまったんですけど、後から冷静になって考えてみたら俺には全く関係ない人が言ってることだし、たぶん色んな飲み会の場とか雑談の場で言われてるようなありふれた会話だと思うのに、なんで俺は反射的にイラッとしてしまったんだろうと考えました。
おそらく色んな場面で話されてるような話題なので、これそのものとしては多くの人が賛成なり共感なり出来る要素が含まれているんだろうと考え、じゃあそこでイラッとしてしまう俺の感じ方の方がある種特殊な考えの人なのかと思いましたが、だからといってこの感じ方そのものをすぐに変えることは出来ないと思う。

そこで、この意見を先ずはどうやったら俺は肯定的にとらえ切れるのかと考えました。

まず「結婚」とは何たるかということから考えました。
俺の中での結婚の定義としては、好きあった男女が共同生活をしていくものだと考えます。そしてそうする中で、一人では出来ないことはもう片方のパートナーの協力を得て、外での仕事、家庭での仕事、また地域との付き合い、互いの家族との付き合いなどをなんとかこなしていくものだと思います。

二人で協力しながら目の前の何かを片づけていこうとしたとき、俺の考える最悪なパートナー像として思い浮かぶのは、生活の中で一方が不得意とする分野を、もう一方のパートナーも同じく不得意とすることです。
分野って書くとちょっと括りがデカすぎますね...んー、役割くらいが適当なのかな?

まぁ続けます。これが友達同士であれば、そこには同じものが「苦手」であるという共通意識が芽生え、共感が生まれ、二人の仲は発展するのかもしれません。
しかしそれが共に補い合い、どうにかこうにかでもその物事に対する解決策を講じていかなければ先に進まないような生活の場面だと非常に厄介なパートナーです。
何しろ自分が出来ないことは相手も出来ません。反面自分が出来ることは相手も出来るため、そういうパートナーは自分たちに「出来る」部分では凄まじい力を発揮することになるんだと思います。

たとえば料理は出来るけど後片付けは出来ないもの同士が一緒に料理をすると、家庭料理でありつつも、そのクオリティーはとてつもないものが出来上がるでしょう。しかし料理が終わった後のキッチンの片づけや食器の片づけはお互い苦手で、下手すりゃお互い手を付けないまま終わってしまうということにもなりかねません。
そういう時はどうするのでしょう。毎回使い終わった食器を捨てるという暴挙に出るしか手段がない気がします。
それが一人は料理が得意で片づけが苦手、もう一人は料理が苦手で片づけが得意という組み合わせになると、得意分野の人の作業レベルを超越することはないまでも、料理から片づけまでをある程度のクオリティで乗り越えることが出来るようになります。

なに当たり前のことをだらだらと書いてんだ、結婚生活ってそういう助け合いのもとに成り立ってることぐらいわかってるよ、だから家事全般出来る30代男性に対する「だから結婚できない」っていうのも、お前が家事全般が出来ることによって、その男性を求める女性は家事以外の部分で男性のことを助けなきゃいけなくなるんだ。それは女性から見りゃあんたに漬け込む隙を自ら狭めているだけに過ぎないと言ってるんだ。

たぶんそういうお互いの役割を果たせる部分、女性にとって出来て当たり前だと世間では思われている家事全般を男性が出来ずにいることで、その男女が出会い共生する中で、自分が相手を支えなきゃいけない部分が楽に見出せるということ。そういう意味じゃ確かになるほど、と思えなくもないです。

そこには世間の意識としての女性は家事が出来るものという基盤があって、男性はそこが苦手とさえ言っておけば、女性は家事全般、男性は残りの部分という助け合いの構図が成立するからです。

としたところまで肯定的に捉えられましたが、ここからは否定的です。

この考え方って、家庭での役割を女性が制するものっていう前提があらかじめ互いの共通認識として存在するんだと思いますが、俺はそこがかなり危ういと思います。
一方のみしかその役割に精通してないって、何かトラブルがあった時とか自分だけじゃ打つ手が思いつかなくて困ったとき、相談する相手っていないんですよ。

家事全般を難なくこなせるといっても、極端なたとえですけど、毎日の家族の食事メニューを考えるとかけっこうしんどいもんですよ。そこで、何も料理の知識のない人に夕方の買い物で「今日の何が食べたい?」って聞いても、夕飯までの残り時間とか冷蔵庫に余った材料とか全く考慮せず、テールスープ食べたいとか平気で言う可能性ありますからね。
たとえば今日は腰が痛くて掃除機かけるのしんどいんだって訴えて掃除機はかけてくれたにしても、風呂掃除やワイシャツのアイロンがけなんて全く眼中にないことだってあるかもしれません。

家事全般をこなせるって言っても、たとえばそこに自己流の凄い拘ったやり方なんかがあってそれしか認めないぞ!みたいな人だとちょっといただけないなってなるとは思いますけど、単に自分で何でも「出来る」程度のスキルの人って、それは一緒に生活を始めたら絶対メリットになるんじゃないのかって俺は思います。

あの、昔の上司の話になるんですけど、その人は部下のやる仕事はまず自分でやってみる人だったんですね。どの仕事をどういう流れでどれくらいの時間がかかってやるものなのかっていうのを、自分でも経験してみて改善策なり効率化なりのテコ入れをしていく人でした。
それは話を聞く限り家庭でも同じようにやってるみたいで、上司の家には俺と同い年の子どもがいて、奥さんは育児休業中だったんですけど、今後奥さんが職場復帰をした後ってのを常に想定してて、家事や育児を教えてもらいながら全部やってみてるって言ってましたし、その時は子どもが奥さんと一緒じゃなきゃ寝付かないって状況だったらしいんですけど「ヤバい」って危機感を持ってました。
何がヤバいって、たとえば奥さんが病気で寝込んだ時とか、たとえば奥さんだけが冠婚葬祭なんかに出席しなきゃいけない時に自分だけで子どもの面倒を見なきゃいけなくなった時とか、そんな状況の備えとして奥さん「だけ」にしか出来ない何かがあるってのは「ヤバい」っていう危機感です。

仕事でもそうですけど、職場でただ一人だけの人しか出来ない何かって、状況としてはかなりやばいんじゃないかと思います。クオリティを比較して、高次元のものはその人にしか出来ないという状況じゃなく、ある程度繰り返しさえすれば誰でも到達できるようなレベルにさえ唯一の人しか到達してないって状況です。
これって言うまでもなく可変性がないですし、何より困った時の相談相手がいないっていうのが精神的にかなりきついものがあります。

んで、我慢して我慢して、でも一人ではどうしようもなくなった時には相談するじゃないですか。
「ねー、ちょっとどうしていいか分からない」って。
そしたらこう返ってくるんじゃないですかね。
「協力したいのはやまやまだけど、やり方分からない」って。

始めから「出来ない」を前提にしちゃうと、そんな返答も許容するしかないですからね。「出来ない」という前提って、俺には「出来るんだからやってよ」を言わせないためのものであるように感じてイラッとするんだと思いました。