金田んち

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活字に人見知りする人

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なんか結論出したっぽく書いてますけどすごいふわっとしてます。



最近「活字離れ」と自称する嫁が本を読んでる。もちろん文字以外の情報をたくさん含んだ漫画はずっと読んでるんだけど、小説…ではないか、たぶんブログを書籍化した「ひるまき日記」というやつを読んでる。



「活字離れ」と自称するくらいだから、たとえもとはブログだっていっても嫁がそんな文字ばかりの本を自分で買うなんてことは考えられない。



だとすると、誰かから貰ったのか、あるいは借りたものなのか。でも子育て中の嫁は、日中友達と会ったりすることは考えにくいし、親類から借りたことも考えられなくはないけど、そんな本を読んでそうな親類を俺は知らない。



じゃあどっから手に入れたのか。たった一つ残る可能性があるとすれば、俺が勢いで買うだけ買って、本棚に放置して忘れていたんだろう。それを「変なタイトルの本がある」ってことで興味がわいた嫁が読み始めた、としたら筋は通ってるんだけど、如何せんそんな本を買った記憶もないし、もちろん内容も全然覚えてない。



まぁそういうわけで、「ふるまき日記」というやつは「活字離れ」した嫁にでも読めるような活字の本であるってことは真実なのです。



嫁もそうだけど、よく「若者の活字離れ」っていうのが言われてる。言われてるっていうより自称してるひとを見ることのほうが多い気もする。



ちょっと前に電車に乗ってた就活生とおぼしき、かしこまったスーツに身を包んだ女の子が「わたしふだん活字読まないから今日の国語の問題全然わからなかった」とか言ってた。

嫁もよくそれらしいこと言って、市役所から届くいろんな書類を読むのが俺の仕事になる。あれはたぶん「読めない」んじゃなくて、読むのめんどくさいとかの理由で「活字離れ」を言い訳にしてるんだと思う。



考えてみると、少なくとも俺が中学生のころと今の中学生を比べれば、活字(文字とか文章でもいいけど)に触れる機会は増えてるはずだ。

いまじゃ「LINEいじめ」って言葉も普及したように、LINEとかブログとかSNSなんかをみんな使ってる。

スタンプとか画像ってのももちろんその中じゃ使われるんだけど、やっぱ圧倒的に「文章」や「文字」を使う機会が昔よりは多くなったと思う。



それでも「活字離れ」ってのは言われる。というより言ってる。



国語の問題だろうが役所からの手紙だろうが、日ごろ遊んでるLINEやSNSだろうが、同じ「文字」なのに何が違うんだってことだ。



まぁ「活字離れ」なんて最近になって言われ始めたことじゃないし、こんなことを書いてるのもたいそうな今更感があるんだけども、これまで俺は、「活字離れ」の人たちが、お役所的な文章とか国語の教科書に載ってるような小説なんかの文章に慣れてないから読めないんだと考えてた。

いまでもその考えは根底にあるんだけど、さらに「活字離れ」の人たちは、書かれた「文字を読む」んじゃなくて、書かれてない「空気」を読もうとしてんじゃないかって考えた。



あるとき嫁に小説を読んで何がわからないのか聞いてみたことがある。そのとき嫁は「書かれてる文字を読んでも、文字を追ってるだけで全然頭に造形が浮かばない」みたいなことを言ってた。

ついでに、なんで漫画は読めるのに小説だと駄目になるんだって聞いてみた。そしたら「漫画は絵が描いてあるから流れで分かる。だいたい漫画も台詞はほとんど読んでない」だそうだ。文章として書かれたところから想像できないのに、描かれた絵だけで流れとか話が分かるっていうほうがたいがい凄いと俺は思うんだが。



そういえば嫁は、今でもテレビと挨拶とか会話をしてしまうくらい小さいころはテレビっ子だったらしく、その時よく見てたのは「トムとジェリー」だったって言ってた。あれも会話するシーンも説明もなく、ただ猫とネズミの行動描写がずっと続くだけのアニメで、俺にはなんだかイマイチよく分からないんだけど、嫁はあーいう感じで漫画も読んでるんだと思う。



そんな「活字離れ」の嫁でも、LINEとかフェイスブックはよく使ってる。その頻度は俺より何倍も濃い。そこではもちろん友達どおしで「文字」を使ったやりとりをしてる。ついでに、最近では「へるまき日記」も読んでる。それらは「活字」なのに「分からない」じゃなくて「楽しい」って言ってた。



じゃあ何が違うのかって考えると、小説にはない「絵」とか「写真」とかの存在ももちろん大きいんだけど、友達どおしでの「活字」のやりとりにも「ほるまき日記」にも、嫁には事前にそれらに関する情報が備わってる。



友達とのやり取りでは、自分に関するほとんどの情報はすでに共有されてて、その場でやることといえば「共有されてないなにか」について書くだけであり、読むだけ。「はらまき日記」では、テーマが子育てなんで、自分もやってる子育てで感じたことや考えたことの差異や共通点を読むだけ。



つまり自分が知ってる相手とのやりとりとか、十分に知識が備わってることに関しては「活字」であっても分かるし苦手感覚なんてないということ。



これ何かに似てるなぁって考えたら、たぶん日常でやってる「雑談」なんだなって俺はふと思ったんです。



嫁は極度の人見知りで、初めて会った人とはまともに会話できないし、すごく気づかれする人なんですけど、たぶん事前情報の少ない「活字」を読むときって、初めての人と「雑談」しなきゃいけない感覚に近いんだと思うんです。



何回も会って、お互いのことを知った上での会話なら、その場で何を話せばいいのかっていうのは「まだその人との間では共有されてない近況」を探せば済む。さらに言っていいことと悪いことも、付き合いが長けりゃ分かってる。相槌を入れるタイミングだとか、声色とか表情の変化で話題とか選ぶ。「空気読む」っていうあれです。



初めて会う人との会話となると、その人との共通点を探したりとか、どんな話題にその人の地雷が隠されているのか探ったり、そういう過程を踏まなきゃ「空気」も読みようがない。



「空気読む」ことが前提の「活字」との触れ合いばかり経験してるから、「活字が苦手」だと思い込んじゃうんじゃないかなってのが俺の考えです。

つまり「活字離れ」の人って「活字に人見知り的」とでも言い換えられるのかな。



あとなんだかなぁ、蛇足なんですけど、文章って大きく2種類くらいに分かれてると思うんですな。

ひとつは新聞とか小説の地の文みたいな「説明的」な文章。「客観的」とでもいいましょうか。



たぶん「活字離れ」の人はこれを読むのが苦手なんじゃねぇかなぁとか思うんですね。普段の文章のやりとりってのが「説明的」であったり「客観的」であったりする必要って全然ないじゃないですか。

だってまったく知らない赤の他人に自分の近況報告なんてする必要ないし。



でも小説の会話文みたいなやりとりは「活字」でやってるんですね。なんつーか崩れた文体っていうのかな。



そういう枝分かれした文体が将来的にはもっと細分化されるのか。年齢層によって使う文体が分かれるとか、場面によって分かれるのかとか。いやすでにそうなってんのかな。俺も仕事だとこんな文章かかないしな。んでまぁ、それはそのままになるのか、それともどこかに収束したり統制されるのかって興味がありますね。