金田んち

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仕事はキライ!でも技術は磨く

私は仕事が嫌いだ!!

突然そんな宣言されても知るかよ、って思うでしょうが、俺は仕事が嫌いなのです。仕事が嫌いだから定時になると誰よりも速く職場から消え去りたくて、自分の処理能力を上げるために頑張るし、間違った処理で二度手間にならないよう、しっかりと勉強したりする。
嫌いだから余計なトラブルなんかは全部避けるためにコミュニケーションを意識するし、ほかの人がやってる仕事でも、さいごには自分に降りかかりそうな仕事をフォローしたりする。
嫌いだからなるべく楽しめるように自分で工夫しないとやっていけないので、たとえばマンネリ化しないようにやり方を工夫したりアプローチをかえてみたりする。


俺のことはどうでもいい。うちの奥様も仕事が嫌いなようで、私いつになったら仕事やめても生活できるくらい稼げるようになる?とか聞いてくるし、定時帰宅を念頭において日々仕事をやっているらしい。

しかし彼女は仕事嫌いなのに、ときどき仕事が休みの日に勉強会に参加したりする。ちなみに彼女の仕事は「作業療法士」といって、病院でリハビリの先生をやっている。同じようなリハビリの先生に「理学療法士」というのもあるらしいが、簡単な違いは手のリハビリか足のリハビリかというような違いらしい。とにかくリハビリの技術が大切になる仕事で、その技術力を磨くための勉強会に、ときどき自費で参加している。

俺はこれまでなぜ仕事が嫌いな彼女がわざわざ休日を返上し、しかも自費での参加になる勉強会に行っているのか分からなかった。リハビリは今日はここまで出来たら終わりというようなものではなく、時間で区切られる。自動車学校の教習みたいなものだ。なので技術を磨けば早く帰れるわけでもないし、仕事がはかどるわけでもない。嫌いなはずの仕事のために、なぜ自由な休日の時間を割くのか分からなかった。

先日、たまにはということで少し遠出をした車の中で、いつものように出来の悪い後輩に対する愚痴を聞いているときにその理由がはっきりと分かった。

少し長くなりそうなので結論を先に書いておくと、患者が20分のリハビリに対して支払う額はたとえば3000円と決まっていて、それはリハビリの先生の技術に関係なく一定の額だから、技術力が低いまま患者にリハビリを施すのは申し訳ない、ということだった。リハビリを担当するのが新米のペーペーであっても20分3000円、同業者が見てもコイツは只者じゃないというような技術力を身につけた人であっても20分3000円。もちろん技術力の差は患者の回復力に大きく影響する。

で、そんな彼女の仕事に対する姿勢に逆らうように、後輩はリハビリの時間を無駄に使っている、というのが今回の愚痴の内容だった。20分という時間の中で、後輩は患者とのコミュニケーション(世間話)ばかりやっていて、注意しても一向に変わらないというものだ。
確かに患者とのコミュニケーションは大切なのだが、その後輩の場合は、話・話・話・リハビリ・話・話、というような具合らしく、割合的には話8割・リハビリ2割というようなものらしい。
なので、後輩は患者がリハビリに対して払うお金に対して誠実じゃない、分かってない、というのが彼女の愚痴の要因だ。

作業療法士というのは国家資格で、その資格を取得するためには専門学校(大学もあったかもしれない)を卒業し、国家試験に受からなければ資格を取得できない。
国家試験は筆記によるものだが、それとは別に、専門学校を卒業するためのカリキュラムの中に、実際に病院なんかで2~3ヶ月、実習生として研修を受ける期間があって、こちらは事実上の実務試験のような役割を果たしているようだ。

その実習を彼女も経験しているのだけれど、彼女が担当した患者が、彼女の実習期間中に、病院から施設にうつる事になった。まぁこれは急性期(漢字があっているのかは分からないけど、救急病院みたいなところで、じーさんばーさんがずっと入院生活を送るような病院ではない)の病院では良くあることらしく、むしろ日常的な風景のようなもののようだ。
だから彼女もそのことについて何も感じてはいなかったし、もちろん実習の評価が下がるようなことはなかった。
しかし、実習の最後、彼女を担当していたリハビリの先生からこう言われた。

「あなたが担当した患者さんで、施設に移った人がいましたよね。これはあなたを責めるわけではありませんが、あの方の望みは家に帰ることでした。でも、これは私も反省しないといけないことですが、もし私やあなたにもっと高い技術があれば、同じ時間のリハビリや支払った金額で、もしかするとあの患者さんは家に帰れたかもしれません。望みを叶えられたかもしれません。実習は今日で終わりますが、これから先就職しても勉強会などに参加したりして、一人でも多くの患者さんの望みを叶えられるように励んでください。私も頑張ります」

先生から「あなたのせいではない」とは言われても、仮に自分にもっと高い技術さえあれば、その患者さんの生活が「今」とは違ったかもしれない。それを想像した彼女は涙を堪えきれずに号泣し、自分の技術を高めるというのはそういうもので、同じ20分3000円というリハビリで叶えられる患者の望みを大きなものにしなきゃいけないと感じた。

それから彼女は就職し、就職した病院ではかなり腕のいい作業療法士が指導にあたってくれた。彼女が担当する患者のリハビリの経過を報告し、上手くいっていないようなら自ら触診してみて、ここをこうやればもっと良くなるというようなアドバイスをくれ、実際にその通りにやると、患者から「すごく良くなった」と言われるくらいに変わると言っていた。
そして、その経験が実習の最後に言われ定まった彼女の仕事に対する姿勢をより強固にする。
ある日彼女が患者のもとに行ったときのことだ。

「昨日の先生、あの人はベテランさん?」
「はい。ベテランです」
「そうだろうねぇ。今日はすごく調子がいいんだよ。あんたも見習いなよ」

その患者は彼女のリハビリにも、そのベテランのリハビリにも同じ3000円を支払う。しかし、同じ3000円なのにその効果は天と地ほどの差がある。患者はもちろん技術力の高いベテランさんが良いだろうけれど、すべての患者をその人一人で担当するなんて不可能だ。それに、リハビリの担当は基本的に病院側が決める。

「申し訳ないな、と思いながらね、はいっっ!!って返事するしかなかった」

と言う彼女。

なんで仕事が嫌いなのに、その仕事関連の勉強会に休日返上で、しかも自費で参加するのか。その理由は患者には自分の仕事の好き嫌いっていう感情は関係なく、患者に対する「申し訳ない」って気持からの行動なんだなって分かったし、リハビリのために患者が払った3000円を無駄話に費やすなって彼女が後輩に対して怒りたくなる気持ちも分かった。
そして、仕事嫌いって言う彼女でも、仕事に向き合う姿勢にはきちんとした信念があって、だからこそ生じる怒りがあるんだと分かった。

それを俺は彼女からエピソードを交えて聞いたから分かったけど、その後輩にはどうやったら伝わるのか。もしかしたら彼女の信念とぶつかるような信念がその後輩の中にもあるかもしれないけれど、とにかく話して伝えないことには愚痴ってるだけでは気持ちの行き場がどこにもない。後輩と話はしてるらしいけど、「はぁ…」という極薄な反応を返すだけで何考えてるか分からないらしいから、なぜ彼女が時間を大切にするのかが後輩に伝われば良いなぁと願うことしか出来ないのが歯痒くて仕方なく、こうして書いた。

保育園の退園をめぐる訴訟から考えたことなど

待機児童と板挟み…悩む自治体 所沢育休退園問題 (産経新聞) - Yahoo!ニュース
読みました。

提訴かぁ。

うちも下の子が生まれて3か月くらい経った頃、役所の保育所担当のおばさんから嫁に「育休に入ったら退園してもらいます」というような電話がかかってきた。

嫁が「なんでですか?」と尋ねたら「育児休業は「育児」のための休業ですから。1人育てられるのに2人は無理なんですか」というような、連絡を受けた側としては喧嘩を売られたと感じても仕方ないような対応をされた。

それについて前書いた時に、制度とか調べて自治体によって運用にバラつきがあることを知って、子育て大変だから子ども産まない!みたいな風潮に追い風を立てるような「退園」という運用は、全国的に統一してやめるべきなんじゃないかと思ってた。

だから提訴したくなる気持ちは痛いほど分かる。

けど、もし保護者側が勝訴!ってなると、リンク先のニュース記事にも書いてあるように、待機児童の問題がますます難しくなってくる。
だから結果保護者側の敗訴になるんだけど、提訴によって、こういう問題があるんだってことをこれから子育てする人たちだけじゃなくて、もっと広く届けるに留めた方が良いんじゃないかと個人的には思う。
全ての園児が入園できるよう、保育園を増やして保育士を雇用して、というのが理想的なんだろうけど、今度は園の建設に対する騒音問題や建設費の捻出とかいう問題だって出てくる。

この問題って、単純に「育休中の退園の是非」だけにとどまらないから、保育っていう事業全体のバランスと照らして考えなくちゃいけないと思うし、そうであれば根本的な解決には時間もお金もかなりかかってくるんだろうなと思う。

で、ここからは何の知識もないアホの戯言です。

待機児童や退園っていうような、保育園に預けたくても預けられないっていう自治体がある一方で、園児が足りなくて廃園の危機という状況の保育園を抱えてる自治体もある。

うちの場合は居住地の自治体が待機児童を抱えていて、子どもを預けてる保育園がある自治体は園児が足りてない。
ふつうは居住地の保育園にしか預けられないみたいなんだけど、園児の足りない自治体では広域なんとかって制度でそういう受け入れをやってて、その制度っていうのが、居住地の自治体に保育料を払い、退園とかのルールも居住地のものを適用し、預かる保育園が別の自治体の園になる。それ以上詳しいことは分からない。

そういう園児が足りないところだから、息子が入園する前に園長先生から説明を受けた時、園児が増えれば賑やかになるし、保育士の増員もかけられる、という歓迎ぶりだったし、二人目が産まれた時もこっちに住民登録されてたら退園しなくて良いんですけど、寂しくなりますね、と残念がってたし、担任の保育士からは「よかったら使ってください」と、自分の息子のお下がりのリュックを餞別として頂いた。

そんな、保育園があっても園児はいないっていうのは、高齢化、過疎化が進む自治体だと思う。

で、ふと考えたのは、子育て世帯はみんな田舎に住めば良いんじゃないのかと考えた。んで、高齢者が都会に住めば良いんじゃないのかと。つまり、ライフスタイルによる棲み分けだ。
もし子どもが増えて施設が必要になれば、田舎なら保育園を新しく建てる土地なんていくらでもあるし、なんなら空き家対策として、空き家をリフォームして再利用しても良いんじゃないかと思う。
田舎はみんな車がないと生活出来ないので、逆に言えば電車なんて乗らずに済むから、電車内でベビーカーがどうだみたいな問題も少なくなる。

逆に高齢者は都会に住むことになるので、自然と車がいらなくなり、ブレーキ踏み間違いとかの事故は減る。

そうすると働く人が減る分都会の税収が減るんだけれど、今よりも企業を都会に集中させれば良い。
住民税は田舎に、法人税は都会に集める。
んで、今はどの自治体も高齢者と園児の対策を両立してるけど、棲み分ければどちらかに力を注げば良くなるので自治体の負担も減る。

ついでに世代観的な軋轢だって生じにくくなるし、スーパーなんかもターゲットが絞られるから商品の仕分けが出来て、スペースの削減にも繋がる。

問題はそうすると住居選択の自由が奪われるってことだけど、何かを守ろうとすれば何かが犠牲になるし、何かを得るには何かを切り捨てるのは自然なことだ。全てを良い方向に、そんな都合の良い話はない。

それに、自由を突き詰めた先にあるのは孤独だ。例えば人と接する時には軋轢を生まないようにルールができる。明文化されない空気だってルールのひとつだ。そしてそれは自由と対極にある縛りだ。

で、何事からも何者からも縛られずに自由になるっていうのは、何者とも接点をもたない、ということになる。

昔に比べて日本は自殺者が増えたと聞く。ネットでは他人との関係が煩わしいとか、仕事が忙しすぎてしにてーという人がいる。でも、本当に死にたい人ってしにてーとは言わないし、ネットにも書き込まないんじゃないだろうか。

自殺しか選択肢のない人って、たぶん孤独な人だ。

今の日本は自由過ぎなんじゃないかと思う。だからみんな孤独で、不安で、縛られた道がないから迷うんじゃないかと。

まぁそれでも俺はワガママだから、孤独がキライで自由が好きなんですけど。

朝起きたら爽やかな息がなかった話

やべぇ!疼いた!脱いじゃった!

読んだ。
朝起きたらパンツをはいていなかった話 - おうつしかえ

別に何書いてても楽しいけど?←この言葉の万能感たるや。

ということで、読者の方をがっかりさせるような誰の為にも何の為にもならない話をしますね。何が「ということで」なんだ。こういうことするから読者登録ボタンも見限ってどっかいってしまったんだろうな。



朝起きたら口からすごく不快な臭いがした。あ、そういえば、微力ながらそれは臭いじゃなく香りだ、という自己暗示で抵抗してみた気もする。

でも確認するとやっぱり口が臭かった。

そろそろ体からは加齢臭が漂ってもおかしくもない年齢だとはいえ、口から加齢臭が漂うなんて話は聞いたことがない。風呂に入ってきちんと体も洗った。ストレスだってこうやってろくでもないことを書いて発散させている。虫歯治療だって済ませた。その時歯垢もとってもらった。だからそれが原因で臭うとは考えにくい。ちなみに3年くらい前のことだ。

前の晩、しこたま焼酎を飲んだとはいえ、肴はチーカマと板わさとハムだ。それから爆睡したから起きるまでの記憶は全くないんだけれど、夢遊病患者のように夜中にペペロンチーノとかもつ鍋とか餃子とか、ニンニクバンザイみたいなものを食った形跡はゴミ箱にも流しにも一切ない。

それでもやっぱり口は臭い。

昔おっさんになったら口から雑巾の臭いがするとか聞いたことがあったけど、そんなはずはないと疑わなかった。

でも実際に臭うのだ。紛れもない自分の口から、使い古した雑巾みたいな臭いがするのだ。どこへ行ったんだ!爽やかだった俺の息‼︎

記憶を遡っても口臭の原因らしきものが見当たらない。何もやってない、俺は何もやっていないはずなんだ。

そうだ、歯磨きもやってなかった。

書いたことで疼きは治まったんでそろそろパンツ履きますね。

「できる人」と「できない人」についての雑感

池田信夫 blog : 「できる子」は正解を考えないで空気を読む

読みました。内容への言及ではないよう!恥ずかしいなこれ。

「できる人」と「できない人」の本質的な差、たしかにそういうのってあるよなぁと思った。それが空気読むかどうかについては知らん。

つい最近の出来事のお話。俺は今事務職として働いてるので、リンク先の勉強が「できる」「できない」とは少し違うんですが、物事を脳内で処理する過程っていう面ではあんま変わらんのかなと思う。

先週のこと。

社内のある企画で大学の先生の意見を聞かなくちゃいけなくなって、いくつかの大学に先生方の兼業依頼を出さないといけなくなった。先生本人には予め話を通したうえでのことなので、形式的な書類の作成だけが残っているという状態。

俺はその書類の処理を任されて、任された時には処理期限がけっこうギリギリだったので、分かりましたスグに作って送ります、と書類を作っていたんだけれど、ふと内規を確認してみると、俺が送ろうとしている書類を作る担当が別の課だってことが分かった。

メール本文に直打ちして、みたいな簡単なやりとりとかだったら別に担当じゃない俺が請け負っても良かったんだけど、今回の場合は相手が大学という、ほとんど役所みたいなところなので、提出する書類もきちんと文書番号とって社印を押印してみたいな手続きが必要だった。
で、自分の課で担当出来るように内規を変えるにもあまり時間的余裕がないし、その文書番号というのが各課連番制なので、どうしても担当課に協力してもらわないと出来ないってことが分かった。

そこでその担当課の担当者と課長に相談に行った。こういう事情なので、文面の作成と内規の変更手続きは俺がやるから、それまでの手続きをやってほしい、と。面倒なら発送も俺がやると。まぁ実質お願いしたことっていうのは、俺が作って担当者に渡す兼業依頼文に文書番号を加えたものをプリントアウトして決裁を済ませ、社印を管理している総務課のチェックを受けた後に社印を押すという、10分もあれば終わるくらいの作業内容だったんだけれど。

で、相談後に早速担当者に書類のデータ一式を渡し、この書類はどういう意味のもので、という説明も一応加えた。

それから一週間。その担当者が俺の机にきたので、てっきり発送までやってくれて大学側から承諾の返信があったものだと思って「早かったですね」と微笑んだら
「はい。文書番号とったので後はお願いしても良いんですよね」と
ちょうどこの日に内規の変更が済んだのは別の話として、とりあえず俺の微笑を返してもらおうか
「これもらっても俺は社印押せませんよね。課が違うから総務でひっかかるでしょ」
どういうこと?と意味が分かっていないらしく
「だから、担当課じゃない俺は社印が押せないので、印鑑付きの原本をください」
あぁ、そういうことですか、と自分の机に書類を取りに。これで良いですか?と見せられたのは、決裁欄に印鑑が押してある「原本」。
こいつ馬鹿にしてるのかとも思ったけど、顔は真剣なのでおそらく素である。
「これを総務課に見せて、この(案)を消したものに日付と文書番号入れて社印を押した紙をく!だ!さ!い!」
「データはどこにあるんですか?」
「あんたも俺も同じもの持ってますよね?俺のはデスクトップにありますが!」
「あぁ…すぐやります」

頼んだ身としてはあまり責め立てるのもなぁと感じつつも。。
入社して何年も経ってる人なので、会社のシステムが分かってないわけじゃないはずなのに、お願いした目的が分からないみたいなんでイライラしてしまって。

俺が昔塾の講師をやってたときもリンク先で書いてあるような生徒がいたんですけど、その時やってた対処法は、説明の前にまず問題を見せるという対処法だったと思う。
たとえば現在完了の問題なら、今からこの()の中にhaveとか過去分詞を入れて現在完了を作ってもらうという話をして、ところで現在完了ってね、という説明に入る。
単純に順番を変えただけなんですけど、説明の後に問題を解くという構造がなかなか理解出来ない生徒には効果があったように思う。

まずこれから自分が解く問題に直面させ、その後にどうやったら問題が解けるのかを説明する。正しいボールの投げ方を教える前にまず投げさせてみるみたいなものです。

たぶん説明が先だと、その説明が何に作用するのか、実際に問題を解くときにどこが大事でどこを理解しないといけないのかっていうのが分からないんじゃないかなと思う。

俺の会社の人もそうだけど、そういう人たちって、自分が今やってることがその先どうなるのかっていうようなストーリを描くのが苦手なんだと思う。けど、具体的に「これ」をやってと明示したものは出来る。
だから他の人に言ったら馬鹿にすんな!って怒られるような「俺が作ってあんたに送る兼業依頼文に文書番号を加えたものをプリントアウトして決裁を済ませ、社印を管理している総務課のチェックを受けた後に社印を押した紙をください」みたいな説明が必要になる。
自分の受けてる説明がその後どう作用するのかが分からないから、何をやらなきゃいけないかの指示「だけ」が全行程分具体的に必要になる。で、指示されてない部分についてなぜそれをやらなきゃいけないのかを説明すると混乱する。

ただそういう人っているよなぁというだけで、特にオチとかはありません。

あ~けど、基本的には指示された仕事をする部下という立場ならまだしも、あの人も大卒なので10年とか20年後には誰かの上司になってるんだろうけど大丈夫かな。うちの会社は学歴が重要っぽいんでね。
資質的には本来「できない人」であっても、やり方次第で「できる人」っぽく教育して学歴を手に入れることって、ある程度なら出来ますからね。受験のコツとかね。

【補足】
DeepForestのはてなブックマークさんから進捗管理はしてましたか?というコメントをいただきましたが、直接の進捗管理はしてません。
それは俺がやるべきでなく、その担当者の上司である課長の仕事で、そのために課長にも事情を説明してます。
ただ仕事を渡したからといって、その案件を無防備に手放すわけにはいかないので、大学の担当者に「押印に手間取るかもしれないので、事前に案の確認をお願いします。後日送付する正式な依頼も内容はほとんど変わらないと思います」として、時間稼ぎ用にデータを送付してます。
そうじゃなきゃ一週間の遅れは取り戻せません。

核がない

あーなんもやりたくない。
働きたくもないし何か食べたいとも思わんし眠たいけど寝たくもない。
反逆者的に正当性ぶってるものに突っかかる気力もないし正義を振りかざす気概もない。
いつもみたいに何か読みたいとも思わないしテレビから流れる音声すら聞きたくない。
もう俺の核みたいなものは朽ち果てて核の周りにあった人間という箱が残ったに過ぎないんだろうか。
原因は分からない。
今日特別な何かが起こったわけではないと思う。いや、もしかすると何かは起こったかもしれないけど、その記憶ごと俺の中心に根付いてた俺がどっかいったのかもしれない。
そういやなんで俺は俺なんだろう。
別に俺は今こうしてなんか書いてる俺じゃなくてもいいはずなんだ。
それは別に反抗期の紋切り型である「好きで産まれたわけじゃない」みたいなエネルギッシュなものを含んでるわけじゃない。
もっとこう、諦観みたいなものに近いんだと思う。
俺が俺として、このまま俺という「人格」を維持していて良いのか、みたいな。そういう感覚である。
生きている意味というのが分からない。つよく死にたいと考えてるわけではないけど、俺の外観さえこの世に残れば中身がどうなろうと関係ないんじゃないかと思うことがある。
とりあえず外観が今の俺でありさえすれば、中身がだれにすり替わろうと会社も家庭もそんなに変わらないんじゃないかとさえ思う。
いや、職業にしても家庭生活にしても、見た目で何かを確立したというわけでは決してないんだけれど、それでも今の俺が俺じゃなけりゃ成り立たない何かがあるとも思えない。
俺が俺と関わる誰かや何かに関与したいという思いは大いにある。
けれど、他の誰かが俺に関与したいと思えるような何かを俺は内在していないし、何かがあると思わせているなら申し訳なく思う。
今の俺には核がない。

カレーについてがっぷり四つ

タイトルは相撲用語でしっかり組み合うみたいな意味だそうです。りょうさんに教わりました。

我が家のカレー事情 - 今日の良かったこと
カレーを根こそぎ楽しむ - 今日の良かったこと

上記のようにりょうさんがカレーの一人相撲をとっておられたので、こりゃカレーが好きな俺も土俵に上がって見合って見合ってはっけよーいせんといかんやろ!と思い至り、東の大関甘口カレーのりょうさんに対するのは、西の序の口辛口カレーの金田でカレーについて語ろう!という企画をお送りしたいと思います。
なお、おいしいカレーの作り方を紹介するよ!みたいな気の利いた記事ではありませんので、ご了承ください。

・ルー

カレー好きならだれでもスープを作ってカレー粉入れて、ターメリックやクミンなどを加えるみたいな手順を踏むかといったら大間違いです。ふつーに市販のルーを使います。バーモントカレーとかこくまろとかそういう固形のやつです。
俺は辛口のカレーが好きなんですが、辛口のカレールーといえば多勢を圧倒してジャワカレーじゃないかと思います。
各銘柄によって甘口・中辛・辛口みたいな指標がありますが、あれはあくまで同銘柄商品と比較してどの程度の辛さなのかを示したものです。
なので、単に辛口という表示でも、ジャワカレーを基準とすれば他のルーの辛口はせいぜいジャワカレーの中辛程度の辛さに収まります。
ちなみに辛さを調節したい時は決め手となる香辛料を加えます。唐辛子の分量が口に入れた瞬間ピリッとくる辛さ、胡椒の分量が後にヒリヒリと残る辛さを左右します。地震のP派とS派みたいなもんです。
甘くしたい時は、ルーをと溶かした後に唐辛子と思われる赤い粒や胡椒と思われる黒い粒をピンセットで取り除くのがよいでしょう。(ぜんぜんよくない。ノーモア辛味泥棒。)

・具

具は普通だと思いますが、その時々で適当です。だいたい入っているのは、じゃがいも・人参・たまねぎ・肉。あと時々入ってくるのが、オクラ・きのこ・かぼちゃ・納豆くらいです。あと、作る時間がたくさんある時は摩り下ろすためのリンゴとホールトマトが加わります。オプションは粘つくものが多い。レギュラー陣だけだと肉じゃがが出来るのかカレーが出来るのか最後まで分からないというのが特徴でしょうか。
肉も適当でスーパーに行ったときに一番訴えかけてくる肉を買って帰ります。そういえば肉は「食ってくれ」と訴えるのでしょうか、「食わないでくれ」と訴えるのでしょうか。まぁおいといて、うちのカレーに入る肉は鶏肉、豚肉、牛肉、ひき肉、なんでもありです。一度野菜のみのカレーを作ってみたのですが、やっぱり野菜だけだと物足りなかったので必ず何かしらの肉は入っています。
ちなみに間違っても冷凍のシーフードミックスなどは使いません。俺はアサリを食べたいのにエキスだけで何時間も嘔吐と戦わないといけなくなるからです。シーフード怖いです。なので外出先でちゃんぽん屋に入った時は、席に案内される前に「あさり入ってますか」の確認が必須です。「入ってます」と言われたらすごく分かりやすく凹んで帰ります。

・作り方

じゃがいも・人参はザザッと肉はぐにゅっと一口大に切ります。玉ねぎはトントンみじん切りにするのとザクザクくし型にするのとに分けておきます。切ってる途中で、こんな自分の為に犠牲になって切り刻まれるこの子たち...みたいな思いから涙が出てくるかもしれませんが、大丈夫、俺を信じて。思いっきり刻んであげて。(何様ですか?)
鍋にサラダ油をひき、みじん切りのたまねぎをどバーッと入れて炒めます。ジャージャーってやりながらけっこう炒めます。あちーよ!あちーよ!!という声が聞こえてきたらおそらく出川です。迷わずテレビを消しましょう。
香ばし目の匂いとともにたまねぎの色が変わったら人参と肉を炒めます。火が通ったら水を入れますが、いやぁ助かった―みたいな顔した玉ねぎが浮かんできても決して同情などしてはいけません。人にはやらなきゃならない場面というのがあるのです。火力を最大にしたら涙をぬぐいながらその場を駆け出しましょう(その場を離れてはいけません)。

次はお好みの時間煮込みます。この段階でもくし型の玉ねぎとじゃがいもを投入していないのはたくさん煮込むことを前提としているからです。
愛情込めてたくさん煮込んでも、出来立てのカレーの中からじゃがいもと玉ねぎの姿が消えていれば、うちの奥さまはこう言うのです。
「何時間煮込んだ?ガス代いくらになると思う?」
愛は金では買えません。しかし、金は愛にも勝るのです。

思う存分煮込んだら、じゃがいもと残りの玉ねぎをぶち込み、煮えたら一旦火を止めます。カレールーを入れてグルグル混ぜ込みますが、このときまだ熱さに慣れていない具材から悲痛な叫びが時々聞こえます。でも大丈夫、ここまでくれば見たくない、聞きたくなものには蓋をしてしまえば良いのです。

なんでも煮込み料理は熱が冷める時に味が染み込むらしいので、ここからは食べる時まで放置しておいて、食べる時にとろみ調整で少し火を通せばうちのカレーは完成です。


あの、これ書いてる最中ずっと思ってたんですけど、この企画って結局独り相撲にしかならんのですな。ブログって対話型じゃないし…まぁいいか。


蛇足としてお気に入りのカレー屋さんでも貼っておきますん。

http://www.hf.rim.or.jp/~tunapaha/
ツナパハ・・・スリランカカレーのお店です。ランチはサラダ・ヨーグルトアイス・コーヒー付きで1000円程。焼きビーフンにスープカレーをかけたヌードルカリーがオススメです。
かなり辛いので食ったら多量の汗が噴き出すので要注意。でもその辛さも食後のヨーグルトアイスを食べればすっとひくから不思議です。

http://members3.jcom.home.ne.jp/asadanokare/
あさだのカレー・・・えっと、ここのカレーは特筆するような辛さはないんですが、口に入れるとまず色んな素材の甘さが広がってきて、後に残るのが心地よい辛さみたいなカレーです。うーん、なかなか魅力を伝えるのが難しいです。通販もやってるみたいなので気になる方は一度食べてみてください。

道ばたの石ころが転がる意味

スタンドブルーさんのこちらの記事を読んでそういえばそうだったなぁと考えたことなどを書きます。
自分の思いを表現するために、はてなブログを開設する。 - とりあえず、やってみる。
スタンドブルーさんは「今週のお題」(「私がブログを始めたきっかけ」)ってことで、自身がブログを始めたきっかけについて書いていますが、俺は始めたきっかけなんて忘れてしまったので書けません。
けれどブログを始めた頃、自分が文章を書く時にどんな状態だったか、それはと今と比較するとどう変わったのかなら書ける、というよりこれを書いてる今は比較済なので書こうかなぁと思った次第です。

誰がそんなものを読んで得をするのかなんて知りません。ただ道ばたの石ころが転がっただけのような誰のためにもならない文章だって、転がった石ころ自身には意味があるんです。そんな文章だって書く意味はあると思うのです。

今でも鮮明に覚えているんですが、ブログを開設して最初に書いた記事は、今この記事の文字数よりも短く、100文字にも満たないポエム的な文章を書きました。それも1時間も2時間も悩んだ末に。

その時はこう、ブログに何か書くってことに全く慣れてなくて、他の人が書いたブログの文章をたくさん読んでたら状況も違ったんでしょうが、それすらやってなかったので暗中模索もいいとこでした。なので、ブログって何を書くものなの?っていう疑問が沸いてググったりしたんですけど、ある人は「何でも好きなことを書けばいい」とOJT(お前が自分で適当にやれ)みたいなこと書いていたり、またある人は「人の役に立つことを書こう」と無理難題みたいなことを書いていたり、またまたある人は「半年ROMれ」と突き放していたり。

結局人の言う事なんかどうでもいいやと思って、でも何故か悩んだ末に書いたものはポエムっぽいものでした。たぶん着飾りたかったんでしょう。何もない自分を。

で、最初のうちは「文章を書く」っていうその行為自体に不慣れだったので、内容の有無などに関係なく、とにかく文字数が少なかった。ブログって読む人は書く人のバッグボーンなんかを全く知らない事が多いなかで自分の考えたことなんかを読んでもらうので、内容以上に大切なのは、迂遠でも要領が悪くても、その考えに至るまでの経過について背景なりを交えながら客観的に説明していくっていう、はためんどくさい作業をこなさないといけないだろうものを、まるで一撃必殺の魔法ザキみたいなものがあるかのように、今言いたいことを端的に言い表す言葉は何なんだ、きっとあるはずだ、みたいなことをうだうだ考えて書いてたので、1000文字とか2000文字書くなんてのは果てしない作業のように感じてた。まぁやり方としてはスカラで地道に読む人の敷居を下げたところに打撃を加えるのが筋なんだろうけど、俺はアホだからバイキルト使って自爆、しかも相手は物理攻撃無効みたいなことよくやる。

けど慣れるものみたいです。

良いことなのかは分かりません。「読まれる文章」とか「伝わる文章」の書き方みたいなのをわりと面白がって読むんですが、概ね挙げられてるポイントとして「短く」というのがあります。けど、俺はそれと逆行するように長文というものに憧れを抱きました。別にロックとか無頼とかいうような盗んだバイクで走り出すような反逆者的なものに憧れたわけではなくて、ひとつのテーマについて饒舌に持論を展開する姿が純粋にかっこ良く見えたんですな。ブログを始めて、他の人が書く文章も読むようになって。つーか短い文章しかかけないって贅肉をつけることが出来ないんだよな。だから自分がつけたい部分にも肉厚を加えられないわけで、結局言いたいこと言えないよな。

まぁ、それで色々と書きましたよ。一時期は毎日更新!って張り切って、初めの頃は100文字捻り出すだけで煮詰まっていたんですけど、書けば書くほどモニターに打ち込める文字数が増えていきました。書ける文字数が増えるにつれて、どんどん文章を書く作業そのものが好きになりました。それまでは読書感想文だろうが日記だろうが、そういう自分や自分の考えを客観視して、それを文章化することに苦手意識をもっていたのが記憶違いだったんじゃないかと思うくらいに。誰かに読んでもらって反応が返ってくることもあったんで、書くことが好きになった要因に承認欲求うんたらってのが無関係だとは言い切れないんですけど。

そうして書いているうちに、俺は文章をほとんど書かない頃にしていた勘違いにある日気づきました。ここまで書いてきたことと矛盾するんですが、文章ってもっと自由に操れるもんだと思ってたんです。なので、村上春樹が凄いとか言われてるけど、何が凄いか分からん。文章なんて同じ体験をした人なら同じようなことが書けるはずだ。だって日本語使ってるし、同じ日本人だし。って思ってた。いやぁ、我ながらとんでもなく恐ろしい思い違いだったと思います。日本人ならみんな同じ外見で、同じ思想の持ち主で、みんな同じ人が好きなはずだ、というような思い違いですから。
日本人の錦織圭が世界で通用するんだから、俺だって出来るはずだって。
関係ないんですな、言うまでもなく。無理やり日本人だからっていう括りで共通観念みたいなものを見出すとすれば、使い古した灰色の雑巾の色や腐った牛乳みたいな匂いに懐かしさを感じるくらいでしょうか。あれは日本人じゃないと分からないものだと思う。

ということで、こんな誰の役にも立たないブログ書いてても、ある程度の長文は書けるようにはなります。それも、内容を気にしなければほとんどストレスなく。

あとは最近気づいたんですけど、ブログ書いてたら自分の生活の中からネタを探さないといけないという命題が生まれます。なので、必然的に自分の生活を客観視できるようになりました。それは書いてない時に比べて明らかに顕著な変化です。

たとえば仕事でイベントの運営をやってて、俺が発言者にワイヤレスマイクを持って行ってる場面。事前の打ち合わせでは他のスタッフが発言者に対する質問がある人のところに別のワイヤレスマイクを持って行く場面なんですけど、担当スタッフの姿は会場から消えてるし、あるはずのワイヤレスマイクも定位置にない。

昔ならパニクってたか、あるいは姿の見えないスタッフに責任を被せてイベントを滞らせるかだったんですが、ブログを書き始めてからというもの、自分の置かれた立場や周囲の状況を客観視できるようになったんです。なんか、すーっと上空からの視点になって、自分の立ち位置や資材の状況なんかを見渡せるようになった。

すると解決策って案外思いつくもんです。あ、この発言者はとりあえずそのまま喋らせて、俺は客席の周囲を走ってあそこにあるスタンドマイクを引っこ抜いて質問者の対応すりゃいいじゃんって。そこまで状況を飲み込めたらあとは体を動かすだけですから楽なもんです。

今この文章を読んでる人にとっては当たり前のことかもしれませんけど、俺は事前の想定が覆された時の対処って、その状況を一歩引いたところから観察するような視点がないとパニクって、もうダメだ帰りたいってなるんです。
それが改善されたのは大きな変化だと思います。

そんぐらいですかね、今思いつく限りでは。

つーことで、誰も得しない文章書いてても自分自身はこんな変化がありましたーっていう文章でした。