金田んち

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責任がなくなるから子より孫が可愛く感じるのか

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俺が出張で家に帰らない日や、残業で夜中にしか帰れない日、嫁と子供たちは嫁の実家でお世話になる。おかげで俺も嫁も非常に助かってる。

俺が義父に会う度に、孫のことを可愛い可愛い言うもんだから「自分の子供のときよりも可愛く感じますか」と尋ねたところ「可愛いね」と返ってきたので「やっぱ責任がなくなるからなんですか」と問うと「んなわけねーやろ、怪我させても変なこと教えても俺の責任やろーが!自分の子供じゃない分責任は大きいんぞ」と叱られた。

そりゃそうだ。いつもお世話してくれてるのになんて失礼なヤツだ。

それから数日「子供より孫が可愛いと感じられるのは『責任がなくなるから』」という古くからの言われについて考えてた。

古くからの言われなので、昔のじぃさんばぁさんは孫との触れ合いにおいて無責任にお前ならこの崖から飛べる、未知なる世界を見に!さぁ行け!なんて言ってたのかというと、そうではないだろう。
だが世間で孫は責任がない分実の子よりも可愛く感じられると言われているのは確かだ。

ならば、世間で言われる「責任がないから」の責任の所在が、義父の定義する子供と触れ合う際の安全面やしつけの面ではないんだろうと考えた。

結果、責任とは子どもを幸せにすることであり、幸せの中身が今と昔で変わったんだと思う。むろん「幸せ」を個人レベルまで落とし込むと多様化してしまうため、社会的に求めているような漠然とした概念みたいなものとして捉えてもらいたい。

これは60代後半になる俺の父や、もういつ死んでもおかしくない90代のばぁちゃんから聞いた話になる。もっとも、この世代の人たちの話というのは、今のように全国各地で文明的な格差の少ない世の中ではなかったことから、全国どこでもその世代の人に通用する話ではないかもしれない。なにしろ方言がキツくて俺も理解出来ない話もあった。
特にうちは閉鎖的な農村部で、文明の発展が他の地域よりも遅れていたところであるだろうことは、話を聞きながら感じたところではある。

父親の小さいころ、日中はじぃちゃんの作ってくれた草鞋を履いて学校に行き、帰宅後は遊ぶ間も無く家族や兄弟のために田畑を牛を引いてたがやしていたそうだ。
そのころ口に出来る食料は自作の米でなく、米を売って得たお金で買った、米よりも安い小麦が中心だったらしい。
それでも飢えが勝るので、その補填食としてイモを食べていたんだと。

だから年中小麦肌だったじぃちゃんは小麦が原料のパンやイモを嫌っていた。
嫌う理由はばぁちゃんに聞いた話になるが、米が食いたいのに食べられず、その代わりとして食っていた小麦製品やイモをひどく嫌っていたそうだ。
満足に食べることの出来なかった頃の辛い記憶を口にしたくなかったんだろう。辛い味はたぶん苦い。

飽食の現代においては考えられないことであるが、戦後ではそれが普通の光景だったらしい。
義父も、自分は常に飢えて辛い子ども時代を過ごしたので、常々「自分の子どもや孫には、とにかく腹いっぱい食わせたい」と言っている。

よって、その時代における子どもを育てる上での「幸せ」=「責任」というのは、好きなもんを好きなだけ食わせるということだったようだ。
なので「責任がなくなる」時とは、子どもが自力で飯を食えるようになる時だ。
もっとも父が自立した頃には、飢餓に苦しむ日本人はそんなにいなかったと思うから、実質的には食べさせることが最重要課題だった社会が終わっていたんだと思う。

対して今の幸せはというと、食べ物はどんだけ貧しい家庭であろうとある程度のものは食える。日本で飢え死になんてニュースはほとんど耳にしない。
ならばどこで各家庭における幸せ度合いに差が出来るかというと、好きな服を買えるだとか、どこにでも行ける養育費を準備出来るかとか、カラースター大人買い出来るかという点になってくる。
金銭面での不自由がない、つまり財力だ。

もう一つ、義父が言ったような子どもを安全に、そして社会に適合させるべく去り際に「そんじゃーね」を言うなどの躾などを施すことだ。物質的に何かを与えるわけではなく、先々子どもに幸せな人生を歩んでもらうためのものである。

日本の成長とともに、親の責任が今日や明日を生き延びるための近未来的な幸せを願うものから、どこが終わりなのか見えてこない長期的なものに変わったんだと思う。

もちろん飯を食べさせることを軽視するようになったわけではない。もっと遠い未来まで見据えることの出来る余裕が生まれ、それによって重点を置くポイントがドボンとシフトしたということだ。

だから今ジジババが感じている子供よりも孫が可愛いとの感情は、責任からの開放によるものではないんだと思う。たぶん子育てをしている時には、子どもの可愛さよりも、毎日の育児による疲労やストレスの蓄積が大きくなる。ジジババになれば、育児に関わる日数が減るため、疲労は超回復し、可愛さが全開になる。
嫁が実家に泊まった翌朝は、家にいる時よりも穏やかで、子どもに接する雰囲気に余裕がある。実家での生活なら、育児に参加する大人の人数が増えることで嫁への負担が減り、疲労が回復することで可愛さなんかを感じやすくなる。一定数の可愛さを、辛さの変数が上回るのかどうかだ。

さて、親が子に願う幸せが変わったわけだが、子どもが願う幸せとは何なのだろうか。
腹いっぱい食う昔の幸せは今や当然のこととして感じられる。幸せじゃないのかと言われたら幸せなのだが、当然がゆえに幸せであるという特別な感覚は湧かない。
当然が増えるだけ、幸せを実感出来る機会はどんどん減る。物質的な満足に対して幸福感が得づらい中で、何に対して子どもが幸せを実感するのか、それを子どもと一緒に探すのも今の親の責任なんだろう。

ちなみにうちの子は、色んな動物がウンコする絵本に幸せを感じているようです。たぶん食うだけ食ったからだろう。