金田んち

スマホ表示の読者登録ボタンがどっか行きました。見かけた方はご連絡ください。至急引き取りに伺います。

先入観という諸刃の剣

文字サイズ

文字を大きくする 文字を規定のサイズに戻す 文字を小さくする

日常生活や仕事をするうえで、これまで養った知識や経験を駆使し、初めての事柄にある程度の「あたり」をつけることで思考や作業の簡略化を図る「先入観」は大切である。
例えばテレビを買い替える度、1から取説を読むことはない。これまでの経験から、リモコンの赤いボタンを押せばテレビが見れるという「先入観」によって取説を読む作業を端折っている。

しかし対物でなく対人の場合、この「先入観」はわりと厄介な存在になり得るし、それによってお互い不幸になるんじゃないかと思う。
“どうせ自分には出来るわけがない”との決めつけが、遠慮という名を借りた他力本願に。逆に“あの人には出来るわけがない”との決めつけが配慮という名を借りた排除に。
結果として「先入観」によって、良かれと思ってとった行動のはずが相手を傷つけ互いの関係にヒビを入れることになりかねない。

先日、嫁が息子と娘を遊びに連れて行った公園でこんなことがあったと聞いた。

3人が公園に着くと小学生の女の子5~6人のグループがいて,公園内の遊具の1つである滑り台で遊んでた。
その滑り台はアスレチック遊具としても遊べるもので、昇降手段として階段の他に網目状にロープが張ってあったり、吊り橋ゾーンがあったり、滑り台もわりと勾配が急なもので、小学生が遊ぶにしてもそれなりに楽しめる造りになってる。

息子は滑り台が大好きなんだけど、先客の小学生グループがそれを占領していたので、どうしようかと3人でその光景をてた時に、女の子の一人がもうすぐ門限だから帰ると言い出した。
それなら他の子もじきに帰るだろうと踏んだ嫁は「順番ね」と息子に伝え、息子は「じゅんばん、じゅんばん」と滑り台が使えるようになるのを待ってた。

そんな時、滑り台を占領してた女の子の一人が「あの子滑り台使いたそうじゃない」とグループのメンバーに伝えたんだけど「あんな小さい子が滑れるわけないやん」と返され、結局ゆずり合って使うには至らなかった。

それから徐々に女の子たちが帰っていき、最後一人になった女の子も帰る時間になったようで、おもむろに取り出したペットボトルを使い「最後はキレイにしてかーえろ」と自分に掛け声をかけ、滑り台を水浸しにして帰った。

それを見た嫁は、ただただ愕然とするだけで声もかけることができなかったし、もちろんその後水浸しの滑り台で息子は遊べなかった。

というのを息を荒げながら話す嫁に
「最悪やね。配慮を知らん小学生は残虐なことするもんやね」
と言うと
「ほんと最悪、もう小学生が公園使う時間は行かん」
と言ってた。昼間は息子と同じ歳くらいの子がいるらしく、それが得策だということで話は済んだ。

何がきっかけだったか、その話をふと今日になって思い返して見ると、なんか「先入観」によってお互い損してないか?と考えた。

息子が滑り台を待ってる時、女の子のうち1人には息子に「気づく瞳」が確かに存在したんだけど、それは「小さい子が滑れるわけない」という「先入観」からくる言葉によって盲目になった。
さらに最後の水浸し事件も、女の子の中では滑り台を滑れる人間は公園に自分一人であるし、自分の門限であるこの時間以降に誰かが使うはずがないとの「先入観」から、翌日気持ち良く使うために善かれとの思いで「洗って」帰った。

実はこの「滑れるわけない」は半分正解で、息子がその公園にあったような、わりと急勾配の滑り台を滑れるようになったのはつい最近のこと。
だから1~2ヶ月前であれば、その目測は誤ってなかったし、滑りたい滑りたいと駄々を捏ねるだけだった息子に諦めさせる材料にもなったと思う。

しかし結果的には、その「先入観」により息子は滑り台で遊べなかったし、女の子は嫁から「最悪」と嫌われた。
たられば話は好きではないが、もし女の子が「滑る?」と聞いてくれていれば、もしくは息子の存在に女の子が気づいた時に「行っておいで」と息子の背中を推していれば、「あの子は滑れないはず」「この後滑れるはず」の「先入観」がなければお互い幸せだったかもしれない。

そしてこのような思い込みや先入観による行き違いは、身近な家庭生活でも起こり得る。

例えば夫婦での家事。

夫がやった’’つもり”の中途半端な家事に、我慢の出来ない妻が放つ冷たい言葉やため息。
妻が仕事で疲れ「今日は晩御飯作れなかった」と伝えた時の夫の冷めた表情。

結局どちらも自分の中にある「決めつけ」や「先入観」から創り出されるパートナー像が見えてるだけで、本来的なパートナーを見る瞳は盲目状態である。

誰しも初めから箸使いが上手いわけではない。俺は未だに上手くフォークで白米を食べれない。同じように家事だって初めから上手くこなせる人などいない。さらに「これで良し!」の度合いですら人によってマチマチである。
いつもキレイに洗われた皿で飯食ってるとしても、そこで見えているのは「洗うべき」皿ではないし、どの程度「洗えば」いつもの皿になるのかなんて考えもしない。
そこに男女差なんて存在しない。存在するのは自分の完璧=相手の完璧という「先入観」や、妻=毎日家事が出来て当たり前という他力本願な「先入観」である。

先入観は時間や手間を省くという素晴らしい特性がある。タイムイズマネー。
しかし対人関係においては、時間や手間と共に正当的な遠慮や配慮が欠ける。
先入観は便利である一方、用途によっては自らを傷つける諸刃の剣である。
確認に要する手間や時間と他者への配慮、どちらが大切か。