第3回短編小説の集い 感想文
第3回 短編小説の集いに参加させていただきました。
ちょっと遅くなりましたが、今回は参加作品全て読ませていただき、感想まで書かせていただきました。作者の皆様お疲れ様でした。
ちょっとこれ感想じゃねーwwみたいなものも含まれると思いますがご勘弁ください。
並びは
【第3回】短編小説の集い 投稿作品一覧 - 短編小説の集い「のべらっくす」
の順番です。
子どもが小さい頃に買ってあげてよく遊んだおもちゃ。とおちゃん一緒に遊ぼうとか言いながら、飽きもせず毎日遊んでいたはずなのに、成長と共にいつの間にか好きなものも変わっていって、一人で遊べるようになった子供と、忘れ去られたようにおもちゃ箱に眠るおもちゃ。
とおちゃんという枠に縛られた時の俺は自由な時間がとれないけど、こどもとの触れ合いからの「愛しさ」や「情」という気持ちは時間的に不自由だからこそ生まれる感情でもある。
今はまだ手のかかるうちの子たちだけど、近い将来、そうやってだんだんと親の手を離れて行くんだなぁと、すやすやと眠る子供たちの寝顔から感じるのは喜びと背中合わせに訪れる寂しさ。
子どもの成長っていうのは光である反面、必ず変化を伴って、そこには俺の「記憶」という影が必ず落ちることになる。
語り手のめぇちゃんが気づくことになる自らの「愛しみ」という感情、それに気づかせたのは常に止まることのない周囲の環境のように、一定の誰かに留まることのないあすかちゃんの姿。
しかし、めぇちゃんの元にも留まらないあすかちゃんは彼女の元から離れて行き、その瞳に映り込む自分自身の「記憶」が寂しさを呼ぶ。
この小説を読んで、変化や成長には必ず心理的な「光」と「影」が存在している、そう感じました。
忘年のイクシーオーン ― 【第3回】短編小説の集い 参加作品 - ごくまトリックス
んーっと、なんだっけこの感覚…あ、RPGだ。それもわりと古い3Dとかになる前のやつ。
主人公が登場して、その世界で主人公が活躍しなきゃいけない理由を神の声からたんたんと説明される。
冒険が始まり、序盤は雑魚敵ばっかでダンジョンも複雑に入り組んだ場所がないからスイスイ進む。
そうこうしてると次第にダンジョンは複雑化し、迷った末にそれまで使ったことなかったフロア全体を見渡せる『セレクトボタン』の存在に気づき、押した瞬間視点がワッと上空からのものに。
なんとか進む道を見つけて、行けたわぁとか安心してるところに現れるのは、ちょっと敵わねぇって感じの中ボス。
やべぇ!やべぇって!!つって狼狽えるうちに瞬殺されて真っ暗になる画面。棺桶から蘇り再びボスの元に向かう途中でふと現れるのが、本来手に入るはずだったのに、あまりにスイスイ進めるもんだから気付かなかった必須アイテム。
そいつを手にして中ボスに挑むと「なぁんだ」っていうくらい呆気なく撃破。
なんかポケモンの秘伝マシン『フラッシュ』とか、ドラクエの…なんか忘れたけど、お賽銭にそういうアイテムみたいな役割を与える発想は斬新でした。
それとお話内のカメラワーク。ボヤッとした視点から主人公に焦点を絞り、絶妙のタイミングで鳥瞰図みたいになったかと思うと再び急接近。そんなカメラワークがすごく躍動的に感じました。
「ゆきやこんこ」 第3回 短編小説の集い「のべらっくす」 - 日々我れ
なんだろ、何度か読み返したんですけど全体が朧げで…
母親の異常とも言えるようなヒステリック具合とか、父親の無神経さだとか、それでいて娘は名前もなく…
なんか娘を介した言葉のやりとりが何処か無機質に感じる所、それにサンタクルースはプレゼントか毒入りのジャガイモのどちらかを持ってくること、さらに「ゆき」と「サンタクルース」は一緒にやって来ることを考えると、もしかして「娘」は死んだんじゃないだろうか。
その悲しみから父親と母親はおかしくなってたんだけど、「ゆき」の命を宿ったことでラストの食卓が彩られた。
となりのトトロの都市伝説で、あの話は娘を亡くした父親の妄想だとかってのを聞いたことがあるんですけど、この小説に出てくる「娘」も「もしあの娘が生きていたら」っていう、生まれる前か生まれて間も無く娘を亡くした父親と母親の想像の中で育った子どもなのかなと思いました。
クリスマスはチョコレートケーキで。 ー【第3回】短編小説の集い ー - このはなブログ
クリスマスでも誕生日でも何でも良いんですけど、嬉しいのって気持ちなんですね。
今年…去年か、嫁が毎朝寒いだろうってことで、ネックウォーマーを編んでくれました。毎日出勤の時には首にはマフラーを、口にはマスクという防寒対策をして出かけてて、ただ嫁に風邪かな?とか無駄な心配かけたくなくてマスクのことは黙ってました。
ところがネックウォーマーをプレゼントしてくれる時には、口まで防寒対策してることに気づいていたのか「首だけじゃなくて口も寒いやろ?ほら!」って自分でネックウォーマーを試着して首から口までを覆ってみせてくれました。
俺は俺で夜オッパイやる時とか寒いだろうってことで、パジャマの上に着るガウンみたいなのをプレゼントしたんですけど、それがお互い内緒でプレゼントを決めたのに、二人とも「寒いだろうから」っていう理由で決めたプレゼントだったんです。
普段からそうやって想う気持ちはあるんですけど、なんかキッカケがないとそれも届けにくいものじゃないですか。
なんかクリスマスにしろ誕生日にしろ、そういうイベントの日って、この小説のトナカイのように、相手に伝えたり届けたりしたいけどくすぶってるものを後押ししてくれる、そんな存在だなぁと読んで感じました。
のべらっくす【第3回】短編小説の集い サンタさんが「パーン」する! - ファンタジー頭へようこそ!
子どもって純粋ではあるんですけど、大人と同じくらい、いや、それ以上かもしれませんけど嘘をつく生き物なんですよね。
うちのこの場合、喋り始めて間もない頃だったと思うんですけど、最初の嘘は「いたーい」ってテーブルの引き出しに指を挟んだふりをしたら「大丈夫!?」って親に構ってもらえるっていう欲望から発した嘘でした。
子どもにしろ大人にしろ、嘘をつくのは何事かの欲望や願望を叶えるっていう目的のためであることが多いと思うんですけども、じゃあ子どもに対してつく嘘って何のためなのか。
サンタクロースはいるんだと子どもに対してつく嘘は何のために、誰のためにつく嘘なのか。
俺が子どもに対してサンタクロースの存在を知らせる時、やっぱり感じ取って欲しいのは「願いは叶う」っていうことかなと思います。
確かに願っただけじゃ叶わないんですけど、サンタクロースが訪れる条件って「良い子にしてれば」っていう、子どもにとっては試練のような条件付きでの願いなので、試練を乗り越えた先には叶う願いもあるんだよ、っていう親からのメッセージは、サンタクロースという「嘘」を通して子どもに伝えられるんじゃないかなと思いました。
幼馴染の仲良し女子って身近にも一組いて、一人は既婚者、もう一人は独身の組み合わせなんで小説の設定とはちょっと違うんですけど、やっぱ同じようにすげー仲良しなんですね。
最近は会ってないんでフェイスブックにアップされてる近況を見るんですけど、一人が「パエリヤ作った☆」みたいな写真をアップすると、もう一人が必ず「今から食べに行く」ってコメントするのが王道パターンみたいな。
わりとそんな関係ってドラマとかで見るし、働き始めの頃は同期同士でそんな仲良しごっこもやったんですけど長くは続かないんですよ。
たぶんそれぞれ別個に自分の生活に重点をおきだすからと思うんですけど。
なのに幼馴染女子はいつまで経っても仲良しで、かといってベタベタくっついてるだけじゃなく、頻繁に会うけど程よくドライみたいな。
そんな関係になれる人って、たぶんお互い努力してるんじゃなくて、なんとなく関係が続いてるから気楽で長く一緒にいれるんだろうなと思います。
あと、えこさんは書くところと余白のバランスがホント上手いなぁと思います。
コタツで鍋をつつくっていうあるあるなシーンとか、書きようによっちゃあただ退屈な描写になってしまうと思うんですけど、擬音や表情や行動を適度に混ぜ込んで書いてあるんで、読んでて「うまそー」「あー、そうそう、あるよね」みたいな感覚。
たぶん「あるある」の描写に五感の全てを駆使してるんじゃないかなってくらい鮮明な描写だと思います。
それでいて書いてない部分。
鍋のシーンを読んでる時、俺が余白から想像したのは、幼馴染女子の服装は中学校時代のダサいえんじ色の体操着で、コタツの中は体育座りに組まれ向かい合ったふた組の足。ビールを冷蔵庫から取り出し扉をしめる時にはケツをボリボリかいている。
みたいなことを想像したんですけど、これっておそらく「あるある」の光景ではないです。
つまり、えこさんが小説の中で色付けするのは「あるある」の部分で、残りの部分は読み手それぞれの感覚で色付けさせてくれる。
なんか、えこさんが書いたはずの作品なのに、自分の感覚を落とし込む余白を残してくれてるんで、あれ?俺の物語?みたいな読後感が残るのが好きですねぇ。
初詣(第三回 短編小説の集い 参加作品) - Fuzzy Logic
うわぁ...悲しみも喜びもない世界って、たぶん「暗」のコントラストしか存在しない、この小説みたいな世界なんだろうなぁ。
ダークネスな世界って、暗を好むんじゃなくて無意識的に暗に吸い寄せられて、人けのない方に人けのない方に、暗い方に暗い方に進んでいく感じ。そこには人の温もりもなければ煌びやかな明るさもない。
凄いっすよ、マジで。
俺がそういう気質がある人なだけかもしれないんですけど、核として存在するブラックホールに吸い込まれるように、どんどんこの世界に入り込んでしまいました。
ただね...
ちょ待てよ!!!!!!お前だけ帰るなよ!!!!
って言いたい。
小説内で使われてる、そこよく表現できたなお前っていう描写の数々にしろ、話の運び方にしろ、のめり込み要素が十分すぎるほど含蓄されてるのにラストが残酷。
戻ってこれないんすよ、小説の世界から。
オチらしきものが準備されてるんですけど、俺が小説の中に落ち込んだまま引き揚げてはくれない。
読後感としては最近の村上春樹の小説と良く似てますね。有り余る表現力で暗い世界に引きずり込んでおいて、読者を小説の世界に置きざりにしてしまう感じ。
なんか凄いものを読んでしまったような気がします。
これはいかんヤツや!反則。
随分前にマツコの知らない世界で老人の携帯で撮った写真特集をやってたんですけど、それに出てきたおばぁちゃんが森進一の写真を見せてくれたんです。
携帯の画面にそれはそれは綺麗に映ってましたよ。
ひな人形が。
そのおばちゃんにインタビューした人が「これひな人形じゃないですか!?」っておばあちゃんに言うんですけど、おばあちゃんは頑としてその写真を森進一だと言い張るんですね。
インタビューしてたテレビ局の人はその写真を森進一だとは認めなかったんですけど、俺がその場にいたら「それ森進一じゃねーだろ」って強く否定し続ける理由もないんで、そこまで言われたら「あー森進一ですね」とか言っちゃいますもん。
これこれ。
http://matome.naver.jp/odai/2141320897072721901
ずるいですよね。やり方が。笑うしかないですもん、そういうこじつけ。
お話の世界観の作り上げ方とか上手いなぁとか思いながら読んでて、でもこれどうやってテーマに近づけていくんだろうと感じだした矢先のこじつけ。
いやぁ、たまりませんでした。
これは…もう俺ごときが下手な感想を書けば書くほど良さが損なわれるんじゃないだろうか。
ならば1000文字くらいの感想書いて全ての良さを取り除いてしんぜよう!
そんな悪代官を自ら買って出たくなるような軽妙な小説でした。
方言、リズム、ネーミングセンス・・・もうお腹いっぱいです。
でも……おかわりください!!
何年も変わらずに存在する身の回りのものであっても、自分に流れる時間の速さと対象物に流れる時間の速さが近似値であるから「変わらずに」見えるんだと思う。
長年使えるコートとか、時計とか、パートナーでさえも。
だいたいのものや人は経年劣化していくもんだと思うけど、中には長年時を共にする事で味わい深くなるものもある。木造住宅の大黒柱とか、野球のグローブとかそうじゃないかな。新品とは違って、思い出なんかがそこに刻まれ、古くても「自分のもの」っていう深みが増していく経年美化ってやつ。
物であれば癒えることのない傷の一つ一つも「美化」として捉えることもできるけど、人の感情ってどうなんだろう。
時が経てば、何年も変わらずに存在すれば、刻まれた傷も美しい思い出に変わるんだろうか…俺には無理だろうな。
【第三回】短編小説の集いに参加しました。 - 池波正太郎をめざして
自分が全く知らない世界に飛び込めるって、小説を読む醍醐味の一つだと俺は思います。
今まで読んだ小説のなかで、これほど主人公の視覚情報に特化して書かれたものってあまり読んだ記憶がないです。
最初は表情も分からなければ感情もうまくわからねぇ、とか思ってたんですけど、何度か読むとだんだん主人公の見てる景色が頭の中で描かれだして、あ、なんか面白いなぁと感じだしました。
なんだろうなぁ…文章化されたストリートビューをただただ眺めてる感じですかね。
あ、そっか!タイトルが「雑踏」だからそんな文章になったのか。気づくのおせぇよ。
「クリスマスディナーは君と」【第3回】短編小説の集い - atsushimissingl’s diary
仮に俺がこの現場にいるとすれば、斎藤でも特盛ちゃんでもなく傍観者の1人でしょうね。
男女の出逢いなんて、いつどんなタイミングで訪れるか予測もできませんけど、少なくとも素面で見知らぬ異性に贈り物なんて考えられないです。
酒の席で…スナックとかで一緒にカラオケ歌ったのがキッカケで、とかならいけそうな気もしますが。
さて、俺は傍観者の1人としてタダならぬネタ的な現場を目撃してるのですが、まず間違いなくTwitterかブログに目撃談を投稿します。それは特盛ちゃんが早いか俺が早いかを競うように。
そしてネット上には同じ状況に対する二つの投稿が並ぶのです。視点の違う当事者である特盛ちゃんと俺の投稿。俺はその違いを見比べたいなと思いました。
んで、一見誰も傷ついてなさそうなこのネタですが、店員さんはその後の仕事をきちんとこなせたんでしょうか。
込み上げる笑いを沈めるのはさぞかし大変だったと思うのです。
医者の診断とか、彼女からの言葉とか。知りたくなかった真実を知ったり、訪れて欲しくない現実が訪れてしまったり。
そういう時って、胸の辺りから込み上げてくるものを逃がさないと耐えられないです。
目は血走って座っていても声をあげて笑うしかない。笑いたくもないけど、そうしないと、込み上げてくるものから飲み込まれてしまう。
この小説を読んでそんな感覚になりました。
小豆粥なんてものがこの世に存在するんですね!
ブログにしろ小説を書く時にしろ、既知の事実でないこととか、わりとマイナーなものを書く時ってけっこう苦労することが多いです。
説明過剰になると説教くさくてつまらないし、説明不足でも何のことだかさっぱりわからないし。
子どもと大人の味覚も、何かを伝える時の説明量も、受けての塩梅の好みの違いなのかなと思いました。
ちなみに俺は薄味派なので、この小豆粥はとても美味しそうだと思いました。
小説: 「君に必要な物は1つだけ」 - okinot’s blog
色んな価値観とか守るものがあるから、「正しさ」の方向もみんなバラバラ。そんな中で争いが起こるのは、その「正しさ」同士がぶつかり合った時だと思います。
色んな人の「正しさ」を総括して出来上がった偶像が、その要素の全てをどこかで折り合いをつけさせたいとしたとき、やっぱ「何も出来ない」っていう無力感に苛まれるものじゃないかなと思いました。
「正しさ」の中身は違っても、お互いが「正しさ」という磁石のS局なので反発するのは仕方ないですから。
色んな「正しさ」を知って、その全てが幸せになるようにどこかに導きたいっていう気持ちがあるのなら、そこにはそれだけの「正しさ」っていう指針をもってなければならず、だとしたら、そこでも必ず「正しさ」同士のぶつかり合いって起こりうるのが必然なのかなと。
自分のもつ「正しさ」の対極にある「正しさ」と同じフィールドでの共存なんて出来ない。それを認めなきゃいけないとすると、選択肢としては「対極の排除」「不利益の許容」「対極からの避難」のどれかなのかなと。
「宗教」とか「信仰」ってなんか胡散臭いイメージがあるんですけど、結局は人間の「弱さ」を補強するためにすがれるものなんだと思うんですよね。
神様とかゆうとなんかとんでもなくでっかい存在で、何でもできて...そんな万能感にあふれた言葉ではあるんですけど、誰しもがすがれる存在みたいなものである以上、そんな万能感のイメージって必ず付き纏うものなんだと思いました。
その「神」が何たるか、それが自分の中の感情だとすれば、そこに畏怖を感じたり崇めたりするのも悪くないなと思いました。
人間って「理性」で「感情」を支配しようとは努めますけど、それってなかなか簡単なことじゃないですからね。
俺の中の神様、どうか今後もついかっとなってヤッちまったみたいな、取り返しのつかないようなことを起こさないよう穏やかでいてください。