金田んち

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普通の日記。散歩した

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読みました。
2015.3.10 〜小さすぎる悩み - バンビのあくび
何気ない日常の中での自分とお子さんとの視点の違いが書かれてるんですけど、なんか、すっと感情を撫でてくれて、嬉しいような恥ずかしいような、ほほ笑ましさの中にも寂しさを感じてしまうような、文章にそんな不思議な魅力が備わってる気がしました。

んで日記を書きたくなったので書きます。オチとか特にありません。

さて、この前けっこう暖かかったので、家族四人で近所の公園に行った。

そこはかなり広大な公園で、むしろ公園というより施設と言った方が良いくらいの広さがある。
山の一部を切り開いたような敷地で、駐車場と散歩コースが下段の層になってて、らせん状の滑り台のようになった道を登ると、公園と野球場のある上段層につく。

一人で自由に走れる息子と嫁は上の公園で遊び、俺とベビーカーに乗せた娘は下で散歩をすることにした。

散歩コースの舗装された道の周りには、たくさんの桜の木が植わってた。木にはネームプレートみたいなのがぶら下がってて、そこには学校の名前だったり家族のメンバーらしき名前が書かれてた。
娘のベビーカーを押しながら、まだ花のついてない殺風景な桜を眺めたら、枝先が少しピンクがかってた。つぼみが膨らんできてるんだと思う。
桜は、暑い赤の夏と、寒い白の冬とが入り混じった春に咲くからピンクなんじゃないか、とか今思った。

気温こそ温かかったけど、そこに新芽の匂いはまだなくて、湿気を含んだ土の匂いと、先らの木の色から、季節が春にうつる準備期間なんだと感じた。
街中で人の服装や飲食店のメニューの変化から季節の移り変わりを感じ取れるのも良いけど、土や草木から季節の変化を感じるのもまた良いもんだと思う。

季節が巡ってまた来年のこの季節が来たときには、娘はもう一人で歩いてるんだろうなと思う。今は娘のベビーカーを押しながらの散歩だけど、来年は少し先のおぼつかない足取りを危なっかしいと思いながら眺めてるのか、一人で転ばないよう手を繋いで歩いてるのかは分からないけど、ベビーカーはもう使ってない。

草!とか虫!って言葉を喋ってるかどうかは分からないけど、今みたいにぅわーー!みたいな言葉からは変わってる。息子は虫を怖がるけど、娘はどうだろう。今娘の声は、どちらかといえばハスキーだけど、来年は今と違うのかな。変わってるのかな。

そんなことを考えながら30分くらい散歩をしたら、日暮れが近づいて少し肌寒くなってきた。

娘のベビーカーを押して、息子と嫁が遊ぶ公園に戻って、そろそろ帰ろうかと声をかけた。まぁ息子はすんなり「うん」とは言わないので、飲み物で釣ったんだけど。

息子は飛行機が大好きでよく空を眺めてる。この日も空を眺めてたんだと思うけど、空を指して「バナナ」と言ってた。若干黄色が濃くなってきた三日月が「バナナ」に見えるらしい。
三日月の時は「バナナ」で、満月の時は「ボール」。息子には月がそんなふうに見えるらしい。

公園から家への道路に沿って川が流れてる。息子はそれを「お魚のお風呂」と言ってた。あれは、か・わ、と教えても、「川のお風呂」と言う。池を見ても「お風呂」と言う。

息子には何かに水が囲われたものは全部「お風呂」に見えるらしい。

そんな息子の見てる世界も、来年には全然別の世界に見えてるんだと思う。

月は月に見えてるかもしれないし、もしかしたら、また別の何かとして見てるのかもしれない。川も池も、俺や嫁のことも。

息子や娘の早すぎる成長を見てると、そんなふうに考えることが少なくない。

基山裕策さんのhome。初めて聴いた時から良い歌だなぁとは思ったけど、8年も前の歌なんだなぁ。その時はまだ結婚はしてなかったし、もちろん子供もいなかったので、えらく歌が上手いし、歌詞もなんか良いかも、くらいの感想だったと思うけど、最近聴くと凄いグッとくる。

特に歌詞を読む機会が出来るカラオケで選曲されると、歌詞を読みながら自分と子供の姿を想像してうわぁってなる。

身体が大きくなって、自分で出来ることが増えて知識も増えて、今とは見たり感じたりする世界が変わる。

そんな成長が楽しみで嬉しくて、でも今子どもが見て感じてる世界について子どもの言葉で聞けなくなるのは、どこか寂しい。

homeの歌詞そのままだけど、凄い沁みる。