金田んち

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出張ってなかなか良いもんだ

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 今年になって、毎月一度くらいは宿泊付きの出張がある。俺は今の会社に就職して7年目になるが、これまでこんなに頻繁に出張した経験はない。学生の頃の時間感覚であれば、この7年という期間はそうとうなものだ。小学1年生だった者は中学1年生に、中学1年生だった者は大学1年生に、それぞれの期間で莫大な経験を積み、7年前よりも広大な視野を手に入れた「おとな」へと成長を遂げるには持て余すほどの時間である。

入社から7年たったが、俺は少しは「おとな」になったのだろうか。職場では相変わらず若手で、まだまだ「ひよっこ」扱いである。

今の部署に配属になったのは今年の4月。だいたい3~4年に一度、配属部署の異動が行われるのがこの時期だ。気の合わないメンバーとも、この3~4年というスパンさえ我慢すれば別空間で働くことが出来るし、異動のたびに心機一転新しいメンバーと仕事が出来ることは、学生時代の席替えのような刺激になる。

席替えの結果、前には何でもそつなくこなすが掴みどころのないノブ君、左にはややそそっかしくもいつも明るい人気者エミちゃん、後ろは清楚で色白美人だが笑顔にはたまに薄い影が落ちていて気になる存在のアッちゃん、右にはその口は閉じることがないのかと常におしゃべりを続け落ち着きのないヤッ君、そしてその中心にいるのは!可愛げもなくぶっきら棒で口下手な俺だぁ!!

そんな席替え後のウキウキを定期的に与えてくれる人事異動が、個人的には大好きだ。

 今の部署での主な仕事は、各地に赴き研修会を開くことである。年間4回程度の研修会の開催に合わせ、会場選定のための下見や会場担当者との打ち合わせ、お偉いさんとの良くわからない会議などを含めると、だいたい月に一度くらいのペースで出張業務が入ってくる。今月は研修会運営のため、佐世保に1泊2日の出張に行ってきた。

 佐世保へは高速バスを使って移動した。バスに揺られる時間は2時間ほどあるので、読みかけの「シンデレラ・ティース」でも読みながらのんびり車内の時間を過ごそうと考えていたが、朝バタバタと支度をしたせいで家に忘れた。仕方なくスマホでネット巡回でもしようと思ったが、液晶画面を見るとバッテリー残量が28%と危うい数字。もう3年近く使っているスマホのバッテリー残量28%は「もう使えません」へのカウントダウンの始まりであり、20%を切ったら瞬殺、20秒経てば使えなくなる。

 バスの中でやることがなくなった俺は、窓から見慣れた街並みを眺めた。しかしそこは高速で、しかも普段乗る軽自動車よりも高い位置からの眺めなので、いつもよりも視界が広く、そして運転していないため景色がゆっくりと動いて見えた。息子を車に乗せると「かあちゃんと一緒乗る」と言ってきかないのは、嫁の腿に座れば視点が高くなり、見える景色が変わるからなんだ、なるほどこりゃ確かに良いもんだと体感した。今年最初の研修会場への移動中は、上手くやれるだろうかとソワソワして道中の景色も記憶にないくらいなのに、わずか数回の経験でこんなにもリラックスできるものなのかと、我ながら感心した。

息子は最近バスに乗りたがり、乗ったら即座に眠るのは、この自家用車とは違う大きくのんびりとした揺れが心地良いんだろう。見慣れた景色を眺めていたはずの俺はいつの間にか眠ってしまっていたようで、次に見た景色は目的地の佐世保の街並みだった。

 バスから降りた時刻は11時32分、少し早いが昼食をとることにした。昼食場所は事前に打ち合わせ済みで、その店のウリは「レモンステーキ」だったのだが、店内のメニュー表を見るとチキンカレーがあったので俺はカレーを注文。同行していた2人は、レモンステーキ・ライスセットとビーフシチューをそれぞれ注文した。

注文した商品はほぼ同時に3人の手元に届いた。よく何人かで昼食を共にすると、みんなの注文したものが運ばれてくるまで食べ始めることが出来ないという、どこから湧き出たのか分からない同調圧力みたいな空気が漂うことがある。「日本人的」とでもいうのだろうか、せっかくの温かい料理が冷めてしまって味を損なうあの習慣が俺は嫌いだ。それが今回はなかったのでほっとした。

係長の手元には、パプリカの赤やサッポロポテトで作った紙縒りのような薄黄色の紐のようなもの、食べても良いのか分からない鮮やかな緑で彩られた綺麗なビーフシチューが届いた。感想は、もっと肉が食べたかったということだった。いや、普通もっとなんか感想があるはずなのだが、彼は野菜に全く興味がなく、かといって魚も好きではない。欲しているのは脂の乗った肉と甘いお菓子なのだ。人が旨いと感じる脂質と糖質は体に悪い。

グルメ情報収集には抜かりのない(漏れなくヨルのお店も)同僚の職員の手元にはお店のウリであるレモンステーキ。厚さ3ミリほどの生肉が、熱せられた鉄板の上で踊りながら運ばれてきたのだが...俺にはそれが「ステーキ」でなく「焼肉」に見えた。「ステーキ」と「焼肉」の線引きがどこにあるのか分からないが、目の前の鉄板の上でジュージュー音を立てているその肉の大きさは5センチ四方程のものが3つ。

俺がこれは「ステーキだ」と胸を張って言えるのは、縦5センチ横15センチくらいの大きさがある肉だ。「サイコロステーキ」というものもあるので、ここら辺の線引きは俺の感覚がズレているとは思うが、それにしたって「ステーキ」と名付けるにしては大きさも厚さも貧相である。それを食った感想は「うぅん。やっぱ旨いね」ということだった。この職員はあらゆる感情や感想が淡白でイマイチ臨場感みたいなものが伝わってこない。が、決して間違ったことは言わないので旨いことは確実である。

俺の手元にはチキンカレーが届いた。サフランライスの島を囲うように綺麗に注がれたカレーと、カレーの海を漂っているうちに座礁してしまったような格好で、半分はカレーに浸かり、もう半分はサフランライスに乗っかった骨付きチキン。今まで何度もチキンカレーを食べたが、こんな盛り付けを見たのは初めてだ。チキンはスプーンで解せるほど煮込んであり、骨付きではあるが手を汚さずに食べられた。カレーを口に入れた瞬間、野菜や果物の甘みがぱっと口いっぱいに広がり、飲みこむくらいのタイミングで汗腺が辛さに刺激された。

なるほど会場から離れた場所で眺める花火みたいで面白い。人間の甘みと辛みの伝達スピードの差は、光速と音速の差みたいなものなのだ。決して近づけない、遠く離れた対岸にある2つの感覚が両立するとき、その差は生まれるのだろう。

 昼食を終え研修会場に着いたのは12時ごろ。受付のスタートは13時30分なので、資料の配布や会場スタッフとの打ち合わせをするには持て余すほどの時間だ。

ブーン

ポケットのスマホのバイブだ。この短さはメールの着信である。確認してみると子どもたちの気持ち良さげな寝顔と「お昼寝したよ、頑張ってね」という嫁からのメッセージ。
いつもなら「よし、あと半日!帰ったら遊ぶぞ」と意気込むところだが、今日は違う。出張なのだ。

資料配布を終え、会場スタッフと講師への水差しを出す時間の打ち合わせも終わったのは12時30分くらいだった。毎回のことではあるが、研修参加者は受付開始時刻を完全無視でやってくる。最初の研修会では「もしかして案内文の時間ミスったか!?」と少し焦ったが、もう慣れた。

この日も最初の1人が来たのは12時40分頃。受付開始時刻の1時間ほど前、研修開始時刻までは1時間半くらいある。「受付はこちらです、お名前をお願いします」と受付を済ませ、「会場は自由席になっております」と会場案内をする。これも毎回のことだが、自由席は後ろから埋まっていく。

お金を払って自主的に参加する研修なのに、なんでそんなに消極的なんだろうか...終了後のアンケートには「もっとスクリーンを大きくして欲しい」とか書くし...前に座ればいいのに。この際「前3列は自由席、中央3列は500円追加でお茶付きの指定席、後ろ3列は1000円追加でお茶と茶菓子付きのグリーン席」に変えて一儲けしようかとも思ったが、勝手にそんな変更したら怒られるだろうな。

 研修会のスタートでは、研修会のスケジュールと会場内のトイレ・自販機・喫煙所をアナウンスする。今年最初の研修会では何人もの人に同じ案内をしないといけなかったので、最初のアナウンスに取り入れることにしたのだ。ここまでくると仕事は終わったも同然で、この先気を配るのは機材の故障や水差しを持ってきてもらうタイミングくらい。もっとも機材が故障したら手の打ちようがないので講師に話術で乗り切ってもらうしかないが。

本格的に研修がスタートすると手持無沙汰になるので、会場入り口付近の受付スペースで係長に「ここまでくるとホッとしますね」と声をかけると「いやいや、私は去年回収したアンケートを全て捨てるというミスをやらかしたからね、油断は禁物だよ」と言われた。

この人は仕事について何か聞くとあらゆるリスクと解決法を教えてくれるし、「大丈夫、何とかなる」が口癖なのだが、まず自分自身であらゆる失敗を経験しているからこそ発することができる言葉なのだ。かつてネットで「標語募集」という企画に応募したらしいのだが、100個集まった標語の中から大賞に選ばれたらしい。

実はそこには裏話が潜んでいて、100個集まった標語のうち80個くらいはこの係長が応募した標語らしいのだ。「私は質より量で勝負するからね」と自称しているが、それにしてもたいがいのもんだ。

仕事でもその傾向は色濃く、何かを企画する時は勘弁してくれ、と音を挙げたくなるほどのアイデアをマシンガンのように連射してくる。イベントで使う配布物を業者と打合せする時も同じように、担当者が「それ良いですね」というまで連射を続けるため、企画提案の場で担当者の嗜好まで把握してしまう。

という良い側面の裏側に、没案が大量発生することや、とにかくミスが多いという反面があるが、その対処法まで経験値に変えてしまうのでとにかく化け物みたいな人である。

俺は初めてあった人に「年齢のわりに落ち着きすぎている」と言われるが、その要因となっているのは、この係長がどんなミスの対処法も心得ているという強力な後ろ盾のお陰である。「大丈夫、なんとかなる」これが借り物の言葉から自分の言葉になるのは何年先のことだろう。

 研修会一日目を無事終えた俺たちは、近くの居酒屋で2時間ほど中打ち上げを行い、それぞれのホテルにチェックインすすため家路...じゃないな、ホテル路についた。宿泊先のホテルが別々なのは仲が悪いためではない。それぞれが泊まりたいホテルを各自予約したためである。一人はとにかく費用重視の古いホテル、一人は朝食のバイキングが絶対のちょっと豪華なホテル、また一人は朝食が貧相ではあるがそれなりに新しいホテルである。

ホテルに向かう道中はそれまで居酒屋にいたためか、単純にそういう季節のためなのかやけに寒く寂しくも感じられる。

チェックインを済ませ部屋に着くと、時計は20時35分を指していた。そろそろか。その前に既に赤く点灯したバッテリーを充電しておかなければならない。朝からほとんど使っていないのにバッテリーだけは消耗する、人の食欲のようなスマホである。

ブーン、ブーン

スマホに繋がれた延命装置を引き抜き、ベッドで液晶を確認するとフェイスタイム(テレビ電話)の着信である。
「もしもーし」
「もしもーし、ほら、父ちゃん映ったよ!」
嫁に抱かれた娘と、不思議そうに画面を覗き込む息子。みんなパジャマ姿で、俺が出張の日の恒例行事となった「おやすみ」のフェイスタイムである。
「父ちゃんおやすみ~って言うんやろ?」
「お利口さんで寝らなよ~」
「とうちゃん、おやすみなさい」
ただでさえ近づきすぎている顔をさらに近づける息子。もう近すぎて目と眉毛しか見えてない。
「おやすみ~」
「じゃあ明日も頑張ってね」
普段食べられないご当地グルメにありつけることも確かに出張の醍醐味ではあるが、嫁がそう言って切るまでの、時間としてはものの5分くらいのこの非日常的な時間が、俺が出張で1番大好きな時間である。

明日の朝は8時から会場の準備だ。アラームを7時にセットし、1日の疲れをシャワーで洗い流す。