金田んち

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日記の色

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なぜ俺は日記を書くのか。なぜ人の日記を読むのか。「日記」の部分は「ブログ」と読み替えてもらっても差し支えありません。

昨日、日記を書き終えた後に凄く清々しい気分になりました。実は書いている最中、どこかに面白い一文でも挿れないと、ただただ長いだけの、それこそどこにでもいるサラリーマンの1日を書いた単なる日記になると思い、書く(正確にはキーボードをタイプ)作業よりも長い時間、思い浮かんだ一文を挿入するかどうか悩みました。

よく「公開する文章」は面白さや有益な情報などの「価値」がなければ意味がない、と言われます。俺自身、面白味も何の情報もない文章をわざわざ読もうとは思いません。同じ時間を使うなら、自分にとって「面白い」と感じるものや「有益」な文章を読もうとするのは誰だって同じでしょう。

そこで考えなければならないのが、十人十色である「面白さ」とは一体何なのか、ということです。前述したように、この文章を読んでくださっている貴男や貴女と同じく、俺も個人ブログを頻繁に読んでいるのですが、たまにそれまで積み上げてきた「文章全体の雰囲気をぶち壊してしまうような一文」をさりげなく挿入している文章に出会うと、うわっ!ここでそう来るのか、やられた!と、思わずクスッとしてしまうことがあります。

他人の「面白い」は分からないまでも、自分の「面白い」と感じるものを表現出来れば、おそらくそういう予測不能なボケ的なものを挿入出来れば、俺が書く文章にも「面白さ」の要素が加わるのではないかと信じていました。そしてそういう一文をつい挿れてしまうのが癖のようになってさえいました。

ちなみに昨日の日記に挿入しようかと迷っていたのは、たとえば昼ごはん後に嫁からのメールが届き、バイブがなった場面。
公開したものは単純に「ブーン」という振動音に気付いたというふうな描写にしましたが、これまでならここに
「ブーン」右ポケットのスマホの着信バイブが俺のちんこを揺らした。
と書いたはずです。というより書きたくて書きたくて悩みまくったのですが、結果的にはその脱線的な一文により全体の流れを断ち切ってしまう、今日は脱線せずに最後まで突き進んでみたい、という考えがウズウズに勝りました。

いざ「公開」を押したとき、書ききったーという爽快感とは裏腹に、やはり「価値のない」ものを公開してしまったーという後ろめたさのような感情も同時に込み上げました。何しろ俺が信じていたのはボケ的な一文こそが「面白さ」であり、つまりそれが「価値」に繋がると思い込んでいたからです。

しかし俺の信じていたその「価値」はどうやら間違っていたように思います。「アクセス数」という数値は荒波がたつわけでもなくごく普段通りでしたが、書かれたブコメを読んで目が点になりました。
レモンステーキ食べたい」「おやすみのフェイスタイムで笑顔になれる」など。
あれっ?特に「面白い」一文を挿入したわけでもないのに、しかもいつもよりも長い5000文字もの長文なのに、最後まで読まれてる、伝えたかったことが伝わってる。
「涙が出そう」にいたっては、何で書いてもない俺の心情を読み取ってんだ?と不思議な思いもしました。

ツイッターのような短文でなく、ある程度纏まった文字数で日記を書く作業はマラソンのように感じます。書く時は常に1人で、目指すゴールまでの先導車は自分の中に眠る「これを伝えたい」というエンジンを積んだ記憶です。マラソンを長時間走っていると、ふと視界に入ったコンビニに立ち寄ろうかとか、あ!バッタ発見!とか、ついコースから外れてしまいそうになる刺激的な誘惑が訪れます。しかし、その誘惑に負けてしまうと見失ってしまうのが先導車です。

文章を書いていても刺激的な誘惑は頻繁にやってきます。脱線的な一文は、突然俺と先導車の間に割って入るのです。その誘惑に負け脱線してしまうと、はたと我に返った時には先導車を見失ってしまっています。まぁいっか、楽かったし。マラソン中に横道に逸れるってのも、見方によっちゃあ面白いはずだし。

我に返った時、先導車の遺した轍を探す能力があれば、そしてそこからゴールまでの道程をまた走り始めるだけの体力があれば、それは「芸」であり一つの「価値」を産むのでしょうが、俺はまだその域に達してはいません。

俺が出来ることといえば、(ゴールを目指すのであれば)この湿っぽい文章で、なんとか先導車を見失わないようついて行くのが精一杯です。(脱線していい加減に走るのをやめることは得意です。それを妥協と言います)

そんな俺が、昨日は誘惑に負けることなく最後まで書き切ることが出来ました。書き終えた時の爽快感は、リタイヤすることなく走り切ったマラソンのようなものでした。

俺はただ何も考えずタイピングするだけ、という作業が実は好きです。なので、昨日のように書き切れなくてもただ書くだけでも問題はありません。なので、脱線しまくりの文章を書いてたって楽しいことに間違いはないのですが、誘惑にまけず書き切った時の爽快感は、またこれも癖者であります。

加えて昨日の日記を書いている時、脱線した一文の挿入をしなかった代わりに、普段書く時よりも鮮明に記憶を辿ることが出来たように思います。

うまく伝わるかどうか分かりませんが…いつも書いている文章はセピア色やモノクロ色の絵のようなもので、昨日は俺の色眼鏡で見えたいろんな色を塗ることが出来た。そんな感覚でした。

どこかで「自分は文章として記憶が残っている」と書かれたブログを読んだ記憶があるのですが、俺は間違いなく「映像」として記憶が残っています。それも「静止画」として。まぁこれは感覚的なもので、そもそも記憶なんてものはとんでもなくウソをつくヤツであって、実際は脳が勝手に捏造した蜃気楼みたいなものなんじゃないかとも感じていますが。

その俺の中に残っている静止画を、思い返したり文章として出力しようとした時、第一弾として表層的なセピア色やモノクロ色のものが出てきます。カレー食った、美味かった。みたいなやつです。

眈々と事実だけを書いた日記であっても、読んだ人にその事実は伝わります。下手に俺にはこう見えた、こう感じた、という色彩を与えれば、誤読曲解の可能性は高まるでしょう。そんな色のはずがない!と。

でもそれで良いのです。そして俺は読みたいのです。単なる事実に付随する、その人の色眼鏡で見た景色を。
今日の空は何色ですか?
スカッとした秋晴れのオレンジに見える浮かれた人、どんよりとした灰色に見える仕事行きたくねぇ人…

まぁこんな事を俺が書くまでもなく、はてなでブログ書いてる人はそこら辺上手い人だらけです。よく感じるのは、みんなたくさん絵の具の色持ってるなぁって事。語彙力半端ねーなってことです。

今書いている文章を読めば一目瞭然でしょうが、俺はあんまり色を持ってないです。語彙力ない。しかし色んな色を出したいので、手持ちの色を混ぜ合わせて作るしかありません。
レシピのようなものはないので、なかなか「これだ!」って色になることは少ないですが、それでも日々楽しんでやっています。

混ぜて、混ぜて、滲むくらいの水分を含んだ絵の具で色彩を与えます。なにしろ湿っぽい文章ですから。


※あとがき※
ほとんど書き終えた段階で寝てしまいました。文中の「昨日」を「一昨日」に読み替えて頂ければ辻褄合うのかな?
ちょっと分かんないんで、俺のことを日付も分からなくなったボケ老人と思ってもらった方が簡単かもしれません。