ネットリテラシーについてのメモ
なんか考えたことをメモ程度につらつら書いただけなので読めるものにはなってないと思います。
昨日仕事が終わって、金田スペシャル11号で月に向かって走っていました(自転車で家に向かってました)。最近は日暮れも早く、いくらチャリんこに乗った俺が反射材やライトを点灯させ、車に対して存在をアピールしても、けっこうヒヤっとする場面ってよくあります。頻度として多いのは、右折車が直進する俺に気付かずあと一歩ブレーキを踏むタイミングが遅れたら俺轢かれてたとか、駐車場から出ようとしてヘッドライト点灯させる前にアクセル踏んで、目の前にいる俺に気付いて急ブレーキ踏むとか、そういう場面ってこの時期には結構多いです。なんかこうして文章で書くと危うい場面に遭遇してるのに平気そうに受け取られるかもしれないですけど現場ではかなり焦りますからね、あれ。
一年くらい前ちゃりんこで宙を舞った時、時間的にはほんの一瞬の出来事なんですけど体感的にはその何十倍ってくらいの時間を過ごしたみたいになって、車に轢かれそうになる時も、体感的にはそんな時間感覚なんですね。
なんか人間身の危険を感じた時はそれに対処すべく、脳の反射速度が極度に早まり、動体視力アップとかのトレーニングとかしてもないのに、いつもよりも周りの時間がゆっくり流れ危険な状況に対処できるように出来ているんでしょうか。だとすると野球でバッターボックスに立つ時は、ホームベース上空のストライクゾーンに顔をセットし、投げられたボールは全て自分に向かってきているものだと脳に錯覚させれば、大谷やチャップマンの投げる軽々160キロオーバーの殺人ストレートも遅く見えるのではないでしょうか。
さて、昨日もいつもの例に漏れず車に轢かれそうになったのですが、なぜ俺の脳みそはネットリテラシーについて考えだしました。
おそらく突然自分を襲う被害者としての事故の恐怖とネットリテラシーの低い人が周りにいることで巻き込まれるネットでの事故、注意していたつもりなのに加害者になってしまう交通事故とネットでの炎上とかがごっちゃになって考え始めたんだと思います。
それでなんかもにょもにょ考えてて、交通事故にたいする恐怖心って、誰しも共通して持ってるもので、だからこそ歩けるようになった子供には手を繋いで歩きなさいとか、信号は守りましょうねとか、車は危ないものだよとかいう教育を保育園や幼稚園だけでなく家でもしっかりやると思います。
対して、今やネットでの炎上が原因で人生が狂ってしまうような、使い方を間違うと恐ろしいことになりかねないネットリテラシーについて、家庭での教育っていったいどうすりゃいいんだろうかと考えました。ただ実際そういう教育をするのはまだもう少し子供が大きくなってからになるんでしょうけど、こういう対策については前もって考えて煮詰めておいたほうが何かと有利な気がします。
たとえば今うちの子にはタブレットを渡して一人で遊ばせたりするのですが、親の目が届く場合に限ってネットに繋ぐことを許可するみたいに強制的な規制をかけるのは簡単なんですけど、それで問題になるのって自分の意志でネットを繋げるようになった時、単に親の前では繋いではいけなかったものが自分の意志で自由に繋げるようになった、という縛りからの解放だけで、本質的に教えたい「なぜダメなのか・どういう使い方がだめなのか」が全く伝わらないと思うんです。
じゃあそれを教えるためにはまず親である自分や嫁が、ネットの怖さについて知っておかなければいけません。
それで、この間嫁と話していた会話を思い出したんですけど、うちのタブレット端末は単体ではネットに繋がらず、繋げたかったらWiFi環境のある場所に行かないといけないのですが、外出先でタブレットを使っていたときに、嫁が「あれ?フェイスブックに繋がらんのやけど壊れたかな」とか言ってました。なので、「ここWiFiないから繋がらんよ」と言うと「いや、ネットじゃなくてアプリだから使えるはずじゃない?」と言ってました。
その昔、ガラケーしかなかった時だとあり得ない会話だと思うんですけども、スマホやタブレットが主流になった今、「アプリ」というものが「インターネット」とは切り離された別の世界を作り出すなにかだという感覚が、ユーザーの中に芽生えだしたのかなと思いました。嫁も俺もガラケーを使っていた時からフェイスブックを使ってましたので、フェイスブックがネットを介しないサービスであるという認識はなかったはずなのです。昔はネットに繋ぎ、フェイスブックにログインしてからしか使えなかったので。
しかし、スマホやタブレットを使い出し、ネットに繋ぐ手間を簡略化した「アプリ」というものを知り、今では「アプリ」を使うのが当たり前になってしまったため、そこに省略された「ネット」が見えなくなったんだと思うんです。
「ネットが危険なもの」というのは既に知れ渡り、ネットを使う人なら漠然としてでも頭の中のどっかにある知識だとは思うのですが、今はそれを「アプリ」という最も身近に使われているものと連動させ意識を結び付ける必要があるのかなと思いました。
そのうえで、自分が発する情報がどんな危険を孕む可能性があるのかについて教えないといけないのかなと。
この個人情報保護に敏感な世の中、それを漏らした企業に向けてわーこら言ってる人の中には、たぶん同じように個人情報を駄々漏らしにしてる人も数多くいると思うんですよ。
たとえば「○○ちゃんの新築の家に遊びにいきましたー。私もいつか一戸建てに住めるといいな☆」みたいな文章と一緒に位置情報付きの○○ちゃんの新築の外観とかリビングで遊ぶ風景とかを投稿するとか。こんな何気なく投稿したものでも○○ちゃんの名前と家の位置情報付き写真という個人情報を漏洩させてしまってますからね。
ネットって色んな人に見られるもんだからそんな些細なことでも実は危険なんだよみたいなことを、一緒にネットを使いながら子供に教えていくのが今考えてる教育方法です。
自分がアップしたものが引き金になって炎上し、自分だけが不利益を被るだけなら自業自得なんでしょうけど、たいてい完全に「自分だけ」で終わることってあんまりないんじゃないでしょうか。家族や職場なんかに迷惑をかけたりとかですね。さらに最悪の場合、自分のせいで誰かしらの人生を変えてしまう可能性だって大いにあるわけで、そうなったら償いきれないでしょう。
俺は親なんで、やっぱ自分の子どもにそんな大きな十字架を背負わせたくはないので、教えられる範囲のことはきっちり教えたいと思ってます。
ただその中で出来ることにも限界がありますし、自分がいくら注意を払ったってヤっちまうこともあるでしょうし巻き込まれる事故はゼロにはならないでしょう。しかしそれでも何も対策を打たない、知らないよりも、考えて使う方がいくらかマシなんじゃないかと思います。