金田んち

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俺は友達がほしい

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1月はいく。2月はにげる。3月はさる。もう2月ですな。足早に過ぎゆく時に好き放題振り回されてる金田です。

今日のエントリーは何についての話なのかサッパリ分からないダラダラとした雑記です。タイトルは単なる現状の願望でエントリーの関連性はない。

金田は最近、子供も嫁も寝静まってから、上司の蔵書コレクションから持ち出した小説を読みふけってる。一応断っておくけど、なにも勝手に持ち出しているわけではないし、その本を売りに出したりすることなんてない。上司からは、ここにあるものは自由に読んでも構わないと言われているから読んでいる。

俺は誰かと一緒に何かをやるのがわりと好きだ。たとえばスポーツでも個人競技よりもチームを組んで、その中で自分の役割を詮索して体現するみたいなことに満足感を得たりする。仕事でも、ある一つの企画のチームの構成員になったとき、自分がその中で何ができるのかというような居場所を見つけようとする過程も好きだったりする。

でも反対に、人との関わりがめんどくせぇなぁと感じることもしばしばあって、自分で自分のことをめんどくせぇやつだなと感じるんだけど、誰とも関わることなく一人で過ごす時間も一日の中で少しはつくりたい。

今の仕事はわりと人と関わることが多いし、出勤すればイヤでも同僚や上司やアルバイトの人なんかと話すことになる。家に帰れば嫁と話すし息子とじゃれ合うし、まだ泣き笑いくらいしか出来ない娘とだって、俺からの一方通行的なコミュニケーションかもしれないが触れ合っている。
俺の一日のほとんどは誰かと関わり、誰かと話す。色んな人とのコミュニケーションがありふれた日常の中に溶け込んでいる。

そんな時間を過ごすうち、俺のめんどくせぇ性質なんだけど、一人きりで何かに耽りたいという願望が湧いてくる。最近では朝夕の通勤時間と夜中の計2時間くらい、いろんな作家さんの創りあげた物語を読み耽る時間にしている。
少し前まではいろんな人の日常や考えをブログを通して読んだり、俺自身も熱心に記事の更新作業にその時間を充てていた。

こうやって自分を吐露するように文章を書き公開するという過程は、それはそれのみでも気持ちがいい。でもそれに加えて楽しいものもある。
はてなブログへの記事投稿や色んな人のブログを読むときにアイフォンのアプリを使っている俺は、自分のブログのアクセス解析のグラフを眺めるのが楽しい。記事を新しく書いて投稿した日もそうでない日も、ほとんど上下することのないそのグラフは、入社してから毎年受けてる健康診断結果の推移グラフみたいだ。変わるのは日付くらいで、だいたい毎日100人くらいの人がブログを読んでいるらしい。

そのグラフだけだと人の反応が分からないが、何か自分の書いたものへの反応があると通知タブの右上に赤丸の数字がつく。スターをもらうと1。ブクマもつくと2。コメントがつくと3。読者が増えると4。
前まではその反応が気になって仕方なかったから、1の反応があれば即座に反応して通知内容を確認していたけど、最近は増えていく数字を眺めるのが好きになってきたので、2~3日くらい放置してまとめて確認するようになった。

数字が2の時はスターとブクマかな、と思って見てみると「PVが100を超えました」と「読者が増えました」だったりして、予想した結果と全然違って笑ってしまう。

そうやって一人で楽しんでる面もあるけど、俺のブログはアクセス数が少ないので、すい数の人に読まれてるブログを書いてる人ってどんな気持ちなんだろうって興味がある。どうやって書いたらたくさんの人に読まれるみたいな感覚を掴んでるんだろうかとか、書くことへのプレッシャーが凄そうだなとか、反応がたくさんあると大変そうだなとか、なんかカッコいいなとか思う。
日頃から楽しそうに過ごしてる人の周りには、同じように楽しそうな人が集まってるイメージがある。なんか面白い記事を投稿して、それを面白がる人が集まってくるようなのって、そんな「面白い」の中心人物みたいな感じで憧れの感が湧く。

そういう自分が書いたものを面白がって読んでもらいたいとか、共感してもらいたいっていう「承認欲求」はなんかバカにされてるような気がする。それを示せる具体例を持ってないので「気がする」としてるんだけど、「承認欲求www」とか「社畜www」とか、そんなイメージ。

具体例もないのに反発するってただのアホなんだろうけど、承認欲求ってそんな馬鹿にされるようなもんじゃないと俺は思う。人が要領悪くても泥臭くても、何かを手に入れたいとか現状から変わりたいとか、そうやって頑張ってる姿を蔑んでバカにするよりも、もがき苦しんでる人の方が俺はカッコいいと思う。

うちには今2歳児と0歳児の子どもがいるけど、同じ夫婦から生まれた子供でも成長のスピードは全然違う。7か月を過ぎた娘はやっと寝返りが出来るようになったけど、息子は1か月以上早く寝返りをうってたし、娘は離乳食を未だあまりうまく食べれない。
それでも、息子や娘のどちらかが凄いとか偉いってことでもなくて、単にコツを掴むタイミングが違うだけでそれぞれに成長していってる。毎日何度も失敗を繰り返しながら、コツを掴めるまで泥臭く頑張ってる。

最近「承認欲求」が芽生えたんだろう息子は、俺や嫁に褒められたくて不器用でも洗濯物を一緒に畳んだりするし、なんでも「自分で」やろうとしてる。
上手くできないから忙しいときなんかは煩わしくも感じるけど、出来ても出来なくても親が何の反応も示さなかったら興味を失い「自分で」やらなくなって、これからずっと下手くそなままなんだろうなと思う。

何かができない期間やコツを掴むまでの期間って人それぞれで、だから色んなプロの世界でも「早咲き」とか「遅咲き」という言葉がある。でもどちらも変わらないのは、咲くまでの期間はみんなあーでもないこーでもないって失敗を繰り返すし、そうやって失敗を繰り返せるのは「承認欲求」があるからなんじゃないかなと思う。

なんで「承認欲求」が笑われるのか。何かが出来るようになりたいの根源が「認められたい」という感情だから?自分は既に努力しても無駄なんだと諦めてしまってるから?自分は既に会得したものに他人が躓いてるから?

自転車に乗りたいんだって人がいたとして、「なんでそんなもんに乗りたいんだ」とか「そのんなもんにも乗れないのか」って馬鹿にすることは簡単だけど、こうやったら乗れるよって教えるのは案外難しい。たとえば、サドルに跨った状態で走って勢いをつけた状態でペダルに足をのせるって教えたって、そもそも走るのが苦手な人もいる。あたりまえのように自分に出来ることと、他人に出来ることは違う。

人の力になろうとすると結構な労力が必要になる。そんな労力を使ってまで何かをするような相手なのかは、俺は互いの信頼関係とかそういう基準による。つーかたぶん「こいつには絶対協力しない」って人でもない限り俺は労力を惜しまない。そういう意味じゃお人よしすぎるというか世話好きというか。
その人が自転車に乗りたい理由が「モテたい」だろうが「出勤で楽をしたい」だろうが何だったって構わない。俺は少しでもその人の力になろうと努力する。
なんでかって、その願望をバカにするよりも絶対カッコいいと思うから。

たとえ「信用できない」相手だったにしても、バカにするのはカッコ悪いと俺は思う。