金田んち

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好きなものを好きでいるために

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洗濯終わるまでちょっと時間があるので何か書く。

たとえばですけど。
いや、たとえばでもなんでもないんですけど。

タレーランの美星バリスタは自由でなけりゃならないと思う。

そりゃ小説の世界での人物なので、作者の作り出した世界に縛られ、ストーリーに縛られ、運命さえも縛られるんですけど。
でも美星バリスタも人間だから、ウンコもするしオシッコもする。それは人間だから必然な行為で、悔しいけど恋だってする。
それは仕方ないことだ。

仕方ないとか言うと難しいけど、それはたとえばお菓子のようなもんだ。

自分の選んだお菓子に対してコレは不味いとか、俺の口には合わないと駄々を捏ねるのは間違ってる。

自分の選んだお菓子に対しては自分で責任を持つべきで、だからこれは不味いって言うのは責任転嫁だ。

自分で選んだものが不味いという事実に、自分自身で向き合うならば、責めるべきは間違いなく自分であって、その言葉は「こんな不味いお菓子を手に取った俺死ね」とか、「俺の選択肢クソ滅びろ」とか、自分に向けられるべきだ。

そう。物事の帰結っていうのはかなり単純なもんで、自分で選んだ物事が気に食わなきゃ捨ててしまえばいい。

なにも無理して不味いお菓子を食う必要はない。

さらに、不味いお菓子を作った人に、自分の選択の過ちを八つ当たりする必然もない。

嫌なら食わなきゃいいだけだ。

でも世の中そんなに容易く捨てられるものばかりではない。

じゃあどうするか。

目の前にある不味いお菓子を、自分の味覚や臭覚や視覚を誤魔化して、美味いものとして捉えるというのがひとつの手だ。

これは意外と簡単で、自分自身に催眠をかければいい。

催眠と言うと難しそうだけど、こうやって嘘でも良いから美味い美味い美味い、これは美味いもんなんだ、みたいに書くなり言うなりして自分にを騙し込めば良いだけだ。

圧力が足りなきゃもっと重圧にすればいいし、説得力が足りなきゃ事例を集めりゃいい。ネットはすげーからそんなのは容易いことだ。

つまり自分で自分自身に言葉で呪いをかければ良い。

もう一つは不味いなりの美味みを探求することだ。

俺はカレーが好きなんだけど、職場の食堂のカレーはクソみたいに不味い。
はっきり言って嫌いだ。
しかし俺はカレーが好きだ。
でも食堂で好きなカレーを食うためには、ありのままを受け止めたんじゃあダメだ。
つまりアナユキはそのままでは受け入れられない。違う。

それでも俺は食堂でカレーを食いたい。食いたいからそこで俺が美味いと感じられるようにカレーをアレンジする。
そのためには俺がどんなカレーが好きなのかについて、自問自答しなけりゃいけない。

自分で好きなものを得るためには、自分の好みをしっておかなきゃいけない。

面倒だけど、好きなものを得るっていうのはそういうことだと思う。

極端なはなし、生きるのが辛けりゃ死ねば良い。でも俺は死なない。

それは生き続けるより死が怖いからだ。

でも生きるのは辛い。痛い。絶望もする。でも死にたくない。

ならば、生きてて楽しいと思えるように工夫するしかない。

それは、好きなもの、選択したものを、そうあり続けさせるようなもんで、どんなカレーでも美味く食おうとする所作みたいなもんだと思う。

洗濯機が呼んでるから終わりだ。