金田んち

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道ばたの石ころが転がる意味

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スタンドブルーさんのこちらの記事を読んでそういえばそうだったなぁと考えたことなどを書きます。
自分の思いを表現するために、はてなブログを開設する。 - とりあえず、やってみる。
スタンドブルーさんは「今週のお題」(「私がブログを始めたきっかけ」)ってことで、自身がブログを始めたきっかけについて書いていますが、俺は始めたきっかけなんて忘れてしまったので書けません。
けれどブログを始めた頃、自分が文章を書く時にどんな状態だったか、それはと今と比較するとどう変わったのかなら書ける、というよりこれを書いてる今は比較済なので書こうかなぁと思った次第です。

誰がそんなものを読んで得をするのかなんて知りません。ただ道ばたの石ころが転がっただけのような誰のためにもならない文章だって、転がった石ころ自身には意味があるんです。そんな文章だって書く意味はあると思うのです。

今でも鮮明に覚えているんですが、ブログを開設して最初に書いた記事は、今この記事の文字数よりも短く、100文字にも満たないポエム的な文章を書きました。それも1時間も2時間も悩んだ末に。

その時はこう、ブログに何か書くってことに全く慣れてなくて、他の人が書いたブログの文章をたくさん読んでたら状況も違ったんでしょうが、それすらやってなかったので暗中模索もいいとこでした。なので、ブログって何を書くものなの?っていう疑問が沸いてググったりしたんですけど、ある人は「何でも好きなことを書けばいい」とOJT(お前が自分で適当にやれ)みたいなこと書いていたり、またある人は「人の役に立つことを書こう」と無理難題みたいなことを書いていたり、またまたある人は「半年ROMれ」と突き放していたり。

結局人の言う事なんかどうでもいいやと思って、でも何故か悩んだ末に書いたものはポエムっぽいものでした。たぶん着飾りたかったんでしょう。何もない自分を。

で、最初のうちは「文章を書く」っていうその行為自体に不慣れだったので、内容の有無などに関係なく、とにかく文字数が少なかった。ブログって読む人は書く人のバッグボーンなんかを全く知らない事が多いなかで自分の考えたことなんかを読んでもらうので、内容以上に大切なのは、迂遠でも要領が悪くても、その考えに至るまでの経過について背景なりを交えながら客観的に説明していくっていう、はためんどくさい作業をこなさないといけないだろうものを、まるで一撃必殺の魔法ザキみたいなものがあるかのように、今言いたいことを端的に言い表す言葉は何なんだ、きっとあるはずだ、みたいなことをうだうだ考えて書いてたので、1000文字とか2000文字書くなんてのは果てしない作業のように感じてた。まぁやり方としてはスカラで地道に読む人の敷居を下げたところに打撃を加えるのが筋なんだろうけど、俺はアホだからバイキルト使って自爆、しかも相手は物理攻撃無効みたいなことよくやる。

けど慣れるものみたいです。

良いことなのかは分かりません。「読まれる文章」とか「伝わる文章」の書き方みたいなのをわりと面白がって読むんですが、概ね挙げられてるポイントとして「短く」というのがあります。けど、俺はそれと逆行するように長文というものに憧れを抱きました。別にロックとか無頼とかいうような盗んだバイクで走り出すような反逆者的なものに憧れたわけではなくて、ひとつのテーマについて饒舌に持論を展開する姿が純粋にかっこ良く見えたんですな。ブログを始めて、他の人が書く文章も読むようになって。つーか短い文章しかかけないって贅肉をつけることが出来ないんだよな。だから自分がつけたい部分にも肉厚を加えられないわけで、結局言いたいこと言えないよな。

まぁ、それで色々と書きましたよ。一時期は毎日更新!って張り切って、初めの頃は100文字捻り出すだけで煮詰まっていたんですけど、書けば書くほどモニターに打ち込める文字数が増えていきました。書ける文字数が増えるにつれて、どんどん文章を書く作業そのものが好きになりました。それまでは読書感想文だろうが日記だろうが、そういう自分や自分の考えを客観視して、それを文章化することに苦手意識をもっていたのが記憶違いだったんじゃないかと思うくらいに。誰かに読んでもらって反応が返ってくることもあったんで、書くことが好きになった要因に承認欲求うんたらってのが無関係だとは言い切れないんですけど。

そうして書いているうちに、俺は文章をほとんど書かない頃にしていた勘違いにある日気づきました。ここまで書いてきたことと矛盾するんですが、文章ってもっと自由に操れるもんだと思ってたんです。なので、村上春樹が凄いとか言われてるけど、何が凄いか分からん。文章なんて同じ体験をした人なら同じようなことが書けるはずだ。だって日本語使ってるし、同じ日本人だし。って思ってた。いやぁ、我ながらとんでもなく恐ろしい思い違いだったと思います。日本人ならみんな同じ外見で、同じ思想の持ち主で、みんな同じ人が好きなはずだ、というような思い違いですから。
日本人の錦織圭が世界で通用するんだから、俺だって出来るはずだって。
関係ないんですな、言うまでもなく。無理やり日本人だからっていう括りで共通観念みたいなものを見出すとすれば、使い古した灰色の雑巾の色や腐った牛乳みたいな匂いに懐かしさを感じるくらいでしょうか。あれは日本人じゃないと分からないものだと思う。

ということで、こんな誰の役にも立たないブログ書いてても、ある程度の長文は書けるようにはなります。それも、内容を気にしなければほとんどストレスなく。

あとは最近気づいたんですけど、ブログ書いてたら自分の生活の中からネタを探さないといけないという命題が生まれます。なので、必然的に自分の生活を客観視できるようになりました。それは書いてない時に比べて明らかに顕著な変化です。

たとえば仕事でイベントの運営をやってて、俺が発言者にワイヤレスマイクを持って行ってる場面。事前の打ち合わせでは他のスタッフが発言者に対する質問がある人のところに別のワイヤレスマイクを持って行く場面なんですけど、担当スタッフの姿は会場から消えてるし、あるはずのワイヤレスマイクも定位置にない。

昔ならパニクってたか、あるいは姿の見えないスタッフに責任を被せてイベントを滞らせるかだったんですが、ブログを書き始めてからというもの、自分の置かれた立場や周囲の状況を客観視できるようになったんです。なんか、すーっと上空からの視点になって、自分の立ち位置や資材の状況なんかを見渡せるようになった。

すると解決策って案外思いつくもんです。あ、この発言者はとりあえずそのまま喋らせて、俺は客席の周囲を走ってあそこにあるスタンドマイクを引っこ抜いて質問者の対応すりゃいいじゃんって。そこまで状況を飲み込めたらあとは体を動かすだけですから楽なもんです。

今この文章を読んでる人にとっては当たり前のことかもしれませんけど、俺は事前の想定が覆された時の対処って、その状況を一歩引いたところから観察するような視点がないとパニクって、もうダメだ帰りたいってなるんです。
それが改善されたのは大きな変化だと思います。

そんぐらいですかね、今思いつく限りでは。

つーことで、誰も得しない文章書いてても自分自身はこんな変化がありましたーっていう文章でした。